とは言うものの。
まさかとは思うけど、裏で糸を引いているのが仁王だとすれば、少し厄介だ。コート上の詐欺師と自称しているが、コート外でも結局詐欺師まがいのことを日常的に行っている彼の手に掛かればなど一縷の疑いすら抱くこともなく簡単にその餌食になってしまうのではないだろうか。それこそ赤也のように。を出来る限りチームメイトに会わせないようにしていたのはそういう理由もある。

?いや、来ていないが」
「そう。ありがとう」

は一年のとき柳と真田と同じクラスだったはずだ。だからがその頃から柳と親しくしていたことは知っていたし、と俺が付き合い始めた直後柳がその事実を知っているのを匂わせるようなことを俺に言ったっけ。今でこそ俺とが付き合っていることは周知の事実だけれど、付き合い始めたばかりの頃は敢えて隠してたわけじゃないが、わざわざ公言することもしなかった。だからあの時はさすがに少し驚いたけど、で割と感情が表に出やすいし嘘は下手だし、俺は俺で彼女に対しては特別優しく接していたはずだから、鋭感な参謀の目に映る俺たちはきっとそういう関係に見えたんだろう。といっても、本当にあの目で見えているのかどうかはわからないけれど。

そういうわけで、が本当に勉強会でもしようと思っているのなら柳のところにも世界史や古典のノートでも借りに来ていたんじゃないかと踏んで20分休みにF組までやって来たものの、どうやら俺の予想は外れてしまったようだ。

がどうかしたのか?」

そそくさと自分のクラスに戻ろうとする俺をすかさず柳が引き留める。どうもこうも、俺にだってよくわからない。

「いや、そういうわけじゃないよ」
「せっかくF組まで来たんだ、I組まで足を運んだっていいんじゃないか?I組の次の授業は数学。教室移動はないはずだし、の休み時間の過ごし方は大方クラスメイトとの談笑に割かれる傾向にある。きっと今頃仲の良い女子と」
「ねえ。まさかとは思うけど、お前はのデータまで採ってるの?」
「まさか?当然だろう」

言葉のとおりあまりにも当然のように即答するので、一体どういうつもりかと思えば、

「テニス部員ではないしろ、うちの部長の機嫌を左右しかねない重要な生徒だからな。彼女の動向は常に把握させてもらっている」

らしい。

「・・・さすがは参謀、侮れないな」

間違いではないが、厳密に言えば左右しかねない、という言い方は少し間違っている。しかねる、のではなく、する、が正しい。わざわざ訂正するような真似はしないけれど、その少しの違いが今大きな問題になっているのだ。俺の機嫌の良し悪しを左右するハンドルがあるとすれば、そのハンドルを握っているのも触れることができるのもたった一人だけなのに、当の本人が無自覚なせいでこんな有様になっている。

「しかし随分と焦っているようだが」
「そう見える?」
「ああ。精市はどちらかと言えば感情が表に出ないタイプで些かわかりづらくはあるが、微妙な違いを見抜くことなどわけない。まぁ、付き合いが長いという点も加味して、のことだがな」
「・・・がね。悪い詐欺師に唆されてやしないか少し気がかりなだけだよ」

放っておくと決めたのに。だけど昨日の仁王の言葉と今朝のの態度がやっぱり気になるのだ。仁王と柳ならともかく、赤也にまで不機嫌を悟られてしまったことが効いているのかもしれない。テニス部の部長として部活にもテニスにも私情など挟みたくないというのに、のこととなると何故こうも感情を抑えきることができなくなってしまうんだろう。まったく、情けないな。

「・・・っていうか詐欺師に良いも悪いもないよね」
「敢えて話すことでもないと思っていたが、一昨日仁王がに声をかけているところを見かけたな」
「・・・は?」

驚きを隠しきれずについつい短く声を上げてしまった。いったいどういうことなのか、訊ねるまでもなく柳は俺の心の中での問いかけにいつもの調子ですらすらと答える。

「精市。お前に化けていたようだ。どんな話をしていたかまでは聞き取れなかったが、まぁ、の交際相手であるお前の姿にイリュージョンした上でのことだからな、大方の察しはつく。目的など想像するに容易い」

なるほどね。「ふうん」短く言葉を返すと、柳の肩が一度小さく反応したのがわかった。言わなきゃよかった、とでも言いたいような表情だ。心外だなぁ、別に怒ってるわけじゃない。ただちょっと、哀しい気持ちになっただけだ。













自分のクラスの方へと向いていた足をくるりと返して、結局俺はF組の先にあるI組の方にまでやってきてしまった。こちらのクラスまで足を運ぶことは滅多に無い。副部長である真田のクラスはA組だし、教室移動なんかでもA組側にある階段を使った方が何かと便利だから、よっぽどの理由がなければ遠いI組までは来ない。例えばに大事な用があるとか、そんな理由がなければね。
H組の前を通りかかったところで、ちょうどジャッカルが教室から出てきた。そうだ、ジャッカルはと同じI組だ。そう思って、ああ、だから丸井のことを知っていたのか、と無理やり自分を納得させるような思考が生まれてしまった。それはそれとして。

「ジャッカル」
「ん?おう、幸村。珍しいな、C組のやつがこっちの方まで来るなんて」
「うん、まぁね」
「あー、もしかして?呼んできてやろうか?」

変に鼻の利くチームメイトもいれば、変に気が利くチームメイトもいる。後者は親切だし他の意味で鼻の利くチームメイトやかわいらしい後輩の世話もしてくれて正直助かっているのだけれど、今の俺の心境としては前者も後者も厄介という意味では大差ないということに気が付いた。ここまで来ておいて、どうやら俺は二の足を踏んでいるらしい。を呼んできてもらって、それで、どうする?問い詰めるのか?一昨日はどうして何も言わずに先に帰ったの?携帯忘れたなんて嘘までついて。仁王に何をされたの?昨日だって本当は一緒に帰るつもりだったんだけど。丸井と勉強会ってどういうつもり?
そんなことを、言うつもりでやってきたわけじゃない。の困った顔はできれば見たくないのだ。もちろん、俺が困らせるなんてことは論外。

「ううん。やっぱりいいや」

休み時間があと5分足らずであることに気づいてそそくさとI組を後にした。なんだ、俺って案外臆病なんだ。一歩踏み込む勇気なんて、とっくに手に入れたと思っていたけど。













昼休みまでには返してほしいって、嘘でも言えばよかった。今日は昼ミーティングもないし、そう言っておけばルーズリーフを返しに来たと昼休みを一緒に過ごせたかも知れなかったのに。
昼休みの開始を告げるチャイムが鳴り、日本史の教科書とノートを机の中に仕舞いながら人知れず溜息をつくと「幸村くん」がすぐ目の前に立っていた。昼休みは今さっき始まったばかりだというのに、I組からC組までよくもまぁこんなにも早くやってこれたものだと感心する。隠しているようだけど、肩で息をしているところを見る限り猛ダッシュでやってきたに違いない。想像してみるとなんだか面白くて少し笑ってしまった。

「あの、幸村くん。良かったら一緒にお昼どうかな?」

胸の前で小さな弁当箱の包みを抱えたが小首を傾げる。少しだけ俺の機嫌を窺うような表情で、けれどやはりまっすぐ俺を見ていた。

「もうお腹は痛くないの?」

悪態をつく俺に、一瞬ビクリと肩を震わせ戸惑いながら苦笑するに「冗談だよ。俺も今日は弁当なんだ、一緒に食べよう」そう告げると苦笑いはいつもの笑顔に変わった。













犯人、ではなく、功労者、と言った方が正しいだろうか。が何の前触れもなくお昼を一緒に、だなんて、ジャッカルがやはり変に気を回してくれたお陰かもしれない。休み時間に俺がI組の方まで来ていたことをわざわざに伝えたのだろう。そうでもなければ、が昼休みにC組までやってくる、ということは余程のことがない限りあり得ないはずなので。
というのも、それも俺がに我慢させていることの一つだからだ。昼休みと言えど、立海大テニス部の部長としてやるべきことは山ほどある。昼ミーティングはもちろんのこと、それ以外にも試合のオーダーを決めたり、練習メニューを考えたり、部員たちの様子や成長度合いなどの情報共有、合同練習で得るべき力と選手各々の目標確立、対戦相手のデータチェック等々、部活中にはできないことを、真田や他のレギュラーたちと昼休みの時間を利用して行う。だからと一緒に昼休みを過ごしたことは、これまで数えるほどしかない。

「俺が言うのもなんだけど、久しぶりだよね。二人でお昼」
「そうだね」

花壇の前のベンチに二人並んで腰かけた。色とりどりのチューリップがゆらり、そよぐ風に揺れた。はまだ少しぎこちない感じで、やはりどこか余所余所しく感じる。さっきの笑顔だって、なんだかとても久しぶりに見たような気がした。よっぽど俺に後ろ暗いことでもあるのかと、ストレートに聞いてみるのが一番手っ取り早いとも思ったが、それではを怯えさせようとしているみたいでしゃくだ。

は仁王のこと、知ってるの?」

だからこれは、ゆっくり聞き出せばいい、と思っての質問だったはずなんだけど。

「に、におうくん? ・・・しらない」

明らかに動揺して声を詰まらせた挙句、嘘。どうしてお前はそんなにばればれの嘘を吐くのかと問い質したくなる。にとって仁王の話題はいきなり確信に迫られるものだったようで、しまった、と思いつつもの反応に反応してしまう。どうでもいいと思っていたことが、一気にどうでもよくなくなった。

「ねえ。お前は嘘をつくのが下手だね」
「・・・・・・」
「一昨日連絡も寄越さず先に帰ったのは、仁王と一緒に帰ってたからなんだろ?」

じっと俺を見つめたままのだったが、俺の質問にはうんともはいとも答えようとしない。「正確には、俺に扮した仁王と」付け加えると、の肩がビクリと跳ねた。やっぱりそういうことだったんだ。じゃあその目的はいったい何なのか、と考えてみる。いくら気まぐれの彼と言えど、目的もなく俺の彼女に、あまつさえ俺にイリュージョンして近づくほど暇人ではないはずだ。そうなると考えられる理由はひとつしか浮かばない。試したんだ。きちんと俺になりきれているのか。彼女であるが、騙されるかどうか。

「・・・うん」
「そうなんだ」
「ごめんなさい・・・」

そんな素直に謝られると訊きたいことも訊けなくなってしまう。お前は何に対して謝ってるの?昨日嘘をついたこと?連絡を寄越さなかったこと?仁王のことを黙ってたこと?問い詰めたいわけじゃないけれど、きっとはそういう風に感じてしまうだろうから、こういうとき俺は俺のポジションというか、イメージというか、素直な感情をストレートに曝け出せない性格にほとほと嫌気が差す。



怒ってるわけじゃない。確かに腹は立っていたけど、お前を怯えさせたいわけでも困らせたいわけでもない。ただ少しだけ、ほんの少しだけ、哀しい気持ちになっただけだ。
お前に、一線引かれたことに。



「・・・幸村くんじゃないって、すぐにわからなかったの」

恐る恐る、といった様子では俺を見つめる。潤いを帯びた二つの黒い目はまっすぐに俺を捉えていた。一瞬泣き出すんじゃないかと思ったけれど、一瞬下唇をきゅっと噛み締めた後で再び口を開いたは「ごめんなさい」はっきりとそう言った。

「へえ。そんなに似てたんだ」
「・・・うん」
「どんなところが?見た目?」
「見た目もだけど、声も。後は・・・」
「後は?」

は少し躊躇った後でゆっくりと口にする。

「・・・少し、冷たいところとか」
「・・・は?」

眉をひそめるとはすかさず意味のない身振り手振りを加えながらフォローを入れる。「冷たいっていうか、・・・一線引かれてるっていうか、その」全然フォローになってないんだけど。

「・・・だって、幸村くんは本当に私のことを好きなのかな、って」
「もうその質問は飽きたよ」
「・・・ごめんなさい」
「何度聞かれたって答は変わらない」
「本当?」

瞬間、があまりにも嬉しそうにきらきらと目を輝かせるから、一気に赤く染まったの顔が直視できなくてたまらずに目を逸らしてしまった。それを見たは数秒きょとんとした表情で固まったかと思うと、だんだんと困り顔へと変わっている。力なくハの字に歪んだ眉とぼんや開いたくちびる、それと潤いを増していく瞳。それでも俺を見つめることをやめようとしないんだからタチが悪い。どうして目を逸らすの?そう言われているようで。

「ねえ

恥ずかしいとか、照れくさいとか、そういうわけではなくて。
本当はもっとお前といろいろ話がしたいし、二人でしたいことだってたくさんある。に負けないくらい、俺はに惚れこんでる。だからこそ、その目に応えられない自分が情けなくてつい逃げ出してしまってた。

「耳貸して」

なに?幸村くん。小さな疑問符を浮かべながらもは素直に俺の方に左耳を向ける。髪を耳に掛ける仕草にさえ目を奪われる。
だけど、ごめんね、。悪いけど俺はお前が思ってるよりもずっとずっとお前のことが、

「好きだよ」




(どうして目をそらすのだ / 幸村精市)