彼女の、昨日のあくびの数を知っている。と言っても、部活の時間だけのカウントだ。
10回。始まる前に3回、練習途中に3回、終わってから4回だ。特に真田副部長の話の途中で何度も大きなあくびをしていたから、よく覚えている。彼女は、あくびをしたあと必ず周りをキョロキョロと見回して、だれも見ていないことを確認してから、ほっとしたような顔をするのだ。いっつもいっつも、大きなあくびなんてしてるからだ。ちゃんと女の子らしく、小さいかわいらしいあくびでもすりゃあいいのに。

「赤也、サボってるー」

今日もかれこれ計10回目のあくび。その最中、バッチリ目があった。彼女は見られた恥ずかしさを誤魔化すように、へへっと笑いながら、俺のサボりを指摘してくる。確かにグラウンド整備、少しサボっていたかもしれないけど。「でけーあくび!」癪だからそう言って、逃げるようにグラウンド整備にもどった。あんなにあくびばっかりして、ちゃんと寝てるのか分からない。最近先輩たちはみんな眠そうで、どうしたのかと聞いたら柳さんが「このところ、模試が多くてな」と教えてくれた。なるほど、勉強は眠くなる。

「先輩、知ってますか?そーいうの、ホンマツテントーっつうの」

あまりにも眠そうに目をこすっているので、気になって声をかけてみた。彼女は目をしょぼしょぼさせてから、「さすがに昨日はがんばりすぎた」と眠そうな声で言い、それからはたとこちらを見る。

「赤也、よく知ってるね」
「ホンマツテントー?先輩の睡眠不足?どっちも簡単っしょ」
「赤也にはとても難しい問題だと思ってたよ。どっちも」
「うぜー先輩」

口ではそう言いながら思わず笑ってしまう。彼女とこうやって話をするのも、久しぶりな気がして。いつも、あくびの数は知っていたけれど、それだけだったから。何だかんだ話しかけるのをためらってばかりいたけど、いざ話してみたら、やっぱりこの先輩と話すのは落ち着くらしい。
彼女も一緒になって笑っていたけれど、ふと俺のジャージに目を止め、裾の部分に触れた。唐突なことに思わず身を引いてしまう。

「な、なんすか」
「ここ解れてるよ。無茶なテニスばっかりするから」
「いんすよ、別に。ちょっとボロっちいほうが、強そうっしょ」
「どっかひっかけたらあぶないよー」
「子どもじゃあるまいし」

子どもでしょう、と返されるかと思いきや、彼女はジッと俺の目を見てから、「そうだね」とやけにあっさり返して、「でもやっぱりジャージは気になるから、貸して」と半ば強引にジャージを引っぺがされた。女子に服を脱がされるのは生まれて初めての経験だった。くそ、こんなことで初めてを使いたくなかった。

「だいたい、あんた眠いんでしょ?」
「うん、眠い」
「そんなんでジャージ直されて、裾がふさがってたりしたらマジ勘弁」

それに、針でぶすっと指をさしてしまったらどうするのだ。彼女だったらやりかねない。やるに決まってる。だったらそれよりも、もう部活も終わったんだし、さっさと帰っていったん寝て、また勉強した方が有意義なんじゃあないのだろうか。

「でも、赤也もいっつも眠そうだから、危なっかしいんだよねえ」
「は?俺が?」

眠そうなのはあんたでしょ、と言いたかったけど、何となく言えずに黙った。

結局ふたりで部室に残り、彼女がちくちくジャージを直すようすを俺はハラハラと見つめ、それから礼もそこそこに並んで帰った。帰り道で一回、彼女はあくびの数を追加する。なるほど、やっぱ部活のときだけじゃないんだな。そう思うと、少しだけ得をした気分になった。賭け事で勝ったような気分だ。













彼の、昨日のあくびの数を知っている。と言っても、部活の時間だけのカウントだ。
7回。始まる前に4回、終わってから3回。彼のあくびはとてもわかりやすい。もっと隠したりしたらいいのに、本当に眠そうにあくびをするものだから、私もしょっちゅう移ってしまう。それなのに「でけーあくび!」とは、失礼なものだ。

「先輩、どうしたんスか」

昨日のことを思い出してほくそ笑んでいると、不意に思考の対象から声を掛けられた。私がひとりでぽてぽてと廊下を歩いていたから不審に思ったのだろうか。このところ三年生は、あまり教室から出ようとはしないから。

「次の授業で地図を使うから、準備室から持ってきてくれって言われちゃって」
「なんで先輩ってそういうビンボーくじいつも引くんスかねー」
「そんなの私だって知りたいよ」

対面側からやってきたはずの彼は、踵を返すと私のとなりをぽてぽて歩き出す。「赤也こそ、どうしたの?」「便所、ついでにサイダー」そう言っているわりに彼の手に握られているのはミルクティーだった。彼にはとても似合わなくて、思わず笑ってしまう。笑わねーでくださいよ、と彼は幾分か情けない声を出す。

「なあに、お金足りなかった?」
「違うッスよ、うちの胡散臭い先輩にやられたんス」
「あらあら」
「なーにが、今は自販機が壊れてるから、サイダーとミルクティーのボタンが入れかわっとるぜよ、だっつーの!」
「あはは、赤也、仁王のマネうまいね」
「うっせ!」

ふて腐れたように口を突出し不機嫌さを全面に出している。それがおかしくて笑ってしまった。彼もいい加減、仁王の言うことなんて聞かなければいいのに。頭が悪いのか、人が良いのか、単純なのか。しばらく笑っていると、彼もどうでも良くなったのか、ちょっとだけ恥ずかしそうに笑い返した。

結局準備室までついてきたので、くだらない話をしながら中に入る。準備室はいつ来ても埃っぽいからあまり好きではない。実際奥の方の資材を取り出そうとすると、制服に埃がついて、あとで恥ずかしい思いをするのだ。入ったとたん私はくしゃみをしそうになったけれど、彼は大きなあくびをしていた。

「赤也くん、でけーあくび」

私は昨日の小さな復讐をする。「俺はいーんスよ」けれど生意気な後輩にあっさりと返されてしまった。そんな差別良いわけがない。

「で、地図ってどこスか」
「たぶんあっちの方に・・・あれかな?」

いろんな生徒がいろんな資材を持ち出しては適当に戻すので、来るたび中の様子が変わってちょっとしたダンジョンみたいだ。昔そんなゲームをやったなあと思い出して、彼なら話に乗ってくれそうだけど、別におもしろい話でもないのでやめにした。もしかして知らなくて、時代を感じてしまってはいけない。たった一年だけど。私はなぜかときどき、自分が彼の先輩であることが嫌になる。

お目当ての地図は段ボールが3つ詰まれた向こうの棚に立てかけられていた。その前には机が無造作に2つ置かれており、本当にダンジョンみたいだ。さてどうやって取ろうかなあと悩んでいるうちに、彼はひょいと机の上に飛び乗る。その反動で埃が舞い上がり、思わず目を細めた。
舞い上がった埃が、窓から差し込む陽でチラチラ光っている。

「すごい、身軽、さすが運動部」
「しっかりしてくださいよマネージャー」

彼が資料室についてきたのはただの話し相手欲しさだと思っていたので、まさか手伝ってくれるとは今の今まで思わなかった。あ、これは手伝ってくれているのか、と思ったときには、彼はそのまま机の上を移動して、段ボールの向こう側へ飛び移り、地図を掲げて笑って見せている。私は精一杯の拍手をおくる。

「ま、余裕ッスね!」

今度は地図を抱えたまま、一メートルは越している大きな地図なのだけれど、それをも感じさせない身軽な動きで、ひょいひょいと私の隣まであっという間に戻ってきた。私には逆立ちしたってできない芸当だったので、素直に感心する。男の子って、運動部ってすごい。

「ありがとう!私ひとりだったら、地図取るだけで休み時間終わってたかも」
「先輩はどんくせーんスよ」
「どんくさくはないよ!」

彼はちょっとだけ笑って、それからまた大きなあくびをした。あまりにも見事なあくびだったので、私もつられる。「赤也は最近あくび多いね」と返したら、「先輩もじゅーぶん多いッス」と言われてしまった。自分では意識していないからまったく分からない。そんなにしているっけ?思い返してみても、赤也があくびをしている様子しか分からなかった。

「助かった、本当にありがとう」

彼が持ってきてくれた地図を受け取ろうと手を伸ばすと、あっさりそれを振り払われてしまう。何のことか分からず首を傾げれば、そのまま赤也は扉へと足を向けた。

「なに?」
「教室まで持ってやるっつってんすよ」
「えっ、いいよ、取って来てくれただけでありがたいのに」
「いーから」
「ダーメ」

しばらく二人で地図を取り合うけれど、結局力では敵いっこなかった。彼は思い切り呆れたような溜息をついて、「そんじゃ、これ持っててくださいよ」と、某詐欺師に騙されて買ったというミルクティーをこちらに寄越した。何だか丸め込まれている気がしてならない。後輩相手に、よりにもよって彼相手にだ。

「あ、俺ミルクティーって飲まないから、先輩飲んでいっすよ」

好きでしょ?なんて、大きな地図を軽々抱えながら言ってくる。資料室を出ると、さっきまでの埃っぽさが嘘のように息がしやすかった。私はなんだか悔しくて、「赤也のくせにー」と苦し紛れに言ったら、「え?何が?」と本気でわかっていなさそうな顔を向けられてしまった。

ありがたくミルクティーに口をつけると、となりで赤也がまたもやあくびをする。今日はこの時間だけで3回。一緒にいる時間が長い分、記録は更新されそうだった。