ブンちゃんが初めてレギュラージャージを受け取ったとき、いちばんに見せてくれたことは、今でもわたしの一番の自慢だ。これから大きくなると予想して少しだけ大きいサイズを注文したブンちゃんは、やっぱり少しだけ身丈が余っているように見えたけれど、それでもとても、お兄さんに見えた。
小さいときから一緒に遊んでいたブンちゃんが、あの立海大のテニス部レギュラーになるだなんて。あの重苦しいお揃いのリストバンドをして、からし色のジャージを着こなして、堂々とテニスコートに立つだなんて。


「丸井くんにテニス教えてもらうなんて、マジマジすっげーうらやまC!」

となりを歩く芥川先輩は、ブンちゃんのことを丸井くんと呼んで、とても慕っているようだった。ときどき、ブンちゃんはそれを照れ臭そうに報告してくれる。今日はジロくんが来たから相手をしてやっただの、昨日ジロくんの試合を見てきただの、意識しているのは芥川先輩だけだと先輩は思っているだろうけれど、ブンちゃんもあれでなかなか、先輩のことを意識している。
小さいときから近所の子たちのヒーローだったブンちゃんは、とてもとても面倒見のいいお兄さんなのだ。一緒に秘密基地を作って、一緒に追いかけっこをして、一緒にテニスをした。今日もブンちゃんは部活が終わったあとにテニスを教えてくれるそうなので、わたしは立海に遊びにきたのだった。芥川先輩がついてきたのは予想外だった。

「芥川先輩、自分の部活はいいんですか?また跡部先輩に怒られちゃいますよ」
「へーきへーき、今日跡部いないから、俺つまんなくってさー」

だったら丸井くんのテニス見てたほうがべんきょーになるし、と本当に思っているのだか適当なことを言っているのだか、先輩はふらふらと危なっかしい足取りで廊下を進んでいる。きっと教室についたら寝てしまうに違いない。「立海行くの?俺も行く行く!」と喜んでついてきた割に、先輩はテニスコートに向かわず、こうやって一緒に3年B組を目指していた。曰く、「部活はどうでもいーや」らしい。さっぱりわからなかった。




芥川先輩が慕っているブンちゃんは、お向いに住む幼馴染だ。
甘いものが大好きで、料理が上手で、なにをやらせても器用にこなしてしまう自慢のお兄さん。ちょろちょろとブンちゃんの後ろをついてまわるわたしの面倒をよく見てくれていた。それなのに立海ではなく氷帝に進学してしまったのは、今でもわたしの一番の後悔だ。氷帝学園はたのしいけれど、ブンちゃんがいない。ブンちゃんがいないと、わたしはどうしたらいいのかわからない。いままでずっと、ブンちゃんの後ろをくっついていたから。

なんで立海に行かなかったの?と芥川先輩に聞かれたことがある。そのときわたしはうまく返せなかったのだけれど、たぶん、いわゆる思春期だ。最近よく聞くんだもの。ブンちゃんをブンちゃんと呼ぶことが、中学生になっているブンちゃんを間近でみるのが、とても恥ずかしかった。たえきれなかったから、氷帝に行ってしまった。数年前の自分はほんとうにバカだと思う。ブンちゃんと学園生活を一緒にしていたら、今以上に楽しかっただろうに。


でも、ダメだ。わたしは最近、ブンちゃんと上手に話せないから。

ブンちゃんがお兄さんとして見られなくなってしまった。今だって、緊張して仕方がない。ふたりきりでテニスなんてできそうになかったから、先輩がついてきてくれてほんとうに助かったのだ。


「立海もたのしそうだなー。強いやついっぱいいるんだもんなー」
「先輩はどうして氷帝に入ったんですか?」
「俺幼稚舎から氷帝だもん」
「あ、そうなんですか」
「ほとんどのやつが幼稚舎からだC、ちゃんは珍しいよね」
「・・・親が、いまさら行っておけと」

ふうん、と適当に相槌をうたれ、はたして本当に芥川先輩がきちんと話を聞いているのか疑わしかった。きゅいきゅいと、先輩の靴底が床を擦る。

「にしてもやっぱ、丸井くんはすっげーよなー。こう、ぐ〜んってさ」
「ぐーん」
「そんで、手首とか、しゅってなって」
「しゅっ」
「いいなー、ずっとそうだった?」

ずっとそうだった?と聞かれても、ぐーんやしゅっがいまいちわからない。ただブンちゃんは小さいときからみんなのお兄さんで、器用に何でもこなしてしまう人だったことは変わらないので、曖昧なまま「そうですね」と頷く。芥川先輩は唸り声をあげて羨ましがった。こんなに誰かに慕われているブンちゃんが近くにいる、それだけでやっぱり誇らしい。最近は、うまく話せていないけれど。









「おっ、なんだよジロくんまでいんの?」

3年B組に到着すると、教室ではブンちゃんがひとりで席について携帯を弄っているところだった。
「丸井くん!」と芥川先輩は嬉しそうな声を出して、予想外のことにわたしは内心バクバクとする。ブンちゃんの赤い髪をみた瞬間、心臓が大きく跳ねて、自分でもそれにびっくりした。
ブンちゃんはふわふわの髪の毛を揺らしながらこちらにやってくる。にこ、とほほ笑まれて、それがあんまりにも男の子らしくかっこいいので、すぐに視線をそらしてしまった。

「ま、丸・・・、ブンちゃん、部活は?」

教室にも廊下にもほとんど生徒などいなくて、だから他校の生徒がこうしてのんびりぺたぺたとやってこれたのだけれど。つまり今はHRの時間をとっくにすぎて、生徒たちはみんな部活動に励んでいるはずだ。立海はそういうの、厳しいのではなかったっけ?

「ちゃんとが着くか心配でさ、来たの見届けてから行こうかと思って」
「何回来てると思ってるの、大丈夫だよ」
「ま、ちゃんと来たしよかったよかった」

ブンちゃんは楽しそうに笑ってわたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でまわす。ブンちゃんにこうされると、やっぱりわたしはただの幼馴染で妹扱いされているのだなあと分かるから、嫌な気分になる。同時に、すっかり大きくなってしまった手に動揺して、やっぱり心臓がバクバクと暴れるのだ。
やーめーて、と抗議をするけれど、「ジロくんも打ってく?相手してやるよ」「マジ!?」ブンちゃんはぜんぜん気にせず先輩と会話をしていた。

「・・・芥川先輩、部活はいいんじゃなかったんですか?」
「え、俺そんなこといったっけ?」
「もー」

芥川先輩にも抗議しはじめるわたしを、ブンちゃんは相変わらずぐしゃぐしゃと撫でまわしたまま見ていたけれど、不意に手を離して「じゃ、そういうことで。ジロくん借りてくぜい」と言ってさっさと教室を出て行ってしまった。自分の好き勝手に行動するのは、ブンちゃんのずっとかわらないところだ。でも憎めない。ブンちゃんがそうやって好き勝手に行動してくれると、後ろをちょろちょろついていきやすくて、助かったからだ。


わたしは学校からずっと一緒だった仲間をとたん幼馴染に奪われ、知らない学校の知らない教室でぽつねんとひとり取り残されてしまった。

「あんまり迷惑かけないでくださいね!」

一応先輩に忠告すると、「すっげーたのしみ!」にこにこと人懐こい笑みで楽しそうに返されてしまった。もしもブンちゃんのいる学校に迷惑なんてかけたら、跡部先輩にチクってやるんだから。






いざ一人きりになるとちょっといやかなり寂しい。ぶうぶう言っていないで、一緒について行ったらよかったかな。けれどブンちゃんは、部活時間にわたしがコートに行くことを、あまり良しとしない人だった。今日は日も出ていないから、熱射病や熱中症になんてならないのに。


過保護にやりたい放題な幼馴染を思い返して、彼の席に座ってみる。
小学校のとき、クラブはいつもブンちゃんと同じにしていた。そうしたら、学年のちがうわたしでもブンちゃんと一緒にいられたから。いつもいつも、ブンちゃんが何クラブにはいるのか聞いて、それから希望を出していた。クラブ活動の時間は、いつもブンちゃんの隣の席に座った。家の中や公園にいるときと少しだけ違うブンちゃんがかっこよくてたのしくて、クラブの時間がいちばんの楽しみだったのだ。


座り慣れない席に、それを思い出す。ついでに暇だから少し寝てしまおうと、両腕で枕を作り突っ伏した。吹奏楽部が、きいたことのない曲を演奏している。わたしの教室だといつも聞こえるはずの野球部の声がしないかわりに、サッカー部の掛け声がする。

もしかしたら机からブンちゃんのにおいでもするかと思ったけれど、今朝方降った雨のせいで机は湿っており、古びた木のにおいしかしなかった。