さわ、さわ、と、風の音が聞こえる。周りには自分の背丈よりもある大きな向日葵。右を見ても左を見ても向日葵の茎と葉の緑に囲われた景色のなかで、少し首を上に向けると黄色い花弁がわたしたちの頭の上に影を作っていた。そして、そのさらに上に広がる空の青。

「なぁ、ぜーったいにおれのそばからはなれんなよ?」
「うん!」
「おまえ、ひとりぼっちになったらうちにかえれなくなんだからな」
「うん!」
「かーさんとか、とーさんとか、あえなくなんだからな」
「うん!」
「・・・なぁおまえ、ほんとにわかってんの?」
「うん!」

前日に降った雨のせいで空気は少し湿っていて、雨の匂いがまだ残っていた。もやっとした生暖かい空気が太陽の光を吸い込んでより鬱陶しく感じる。
汗ばんだわたしの手をぎゅっと握るブンちゃんの手はじぶんのそれとおなじくらいの大きさで、だけどとても温かい。ブンちゃんはお兄さんなのに、背丈だってわたしとあまり変わらない。そのくせ歩幅だけは大きいから、それに合わせて歩くのが少し大変だった。だんだんと離れていくわたしとブンちゃんとの距離は、しかし二人の腕の長さを超えることはなかった。お互いの腕が限界まで伸びたところで、ブンちゃんが何も言わずに足を止めてくれるからだ。呆れ顔でガムをぷぅ、と膨らませるブンちゃんをにこにこと笑って見ていると「なぁ、おまえ、このじょーきょーで何がそんなにたのしんだよ?」額ににじむ汗を拭いながら鬱陶しそうにわたしを睨むブンちゃんだったが、絶対にわたしの左手を離そうとはしなかった。

「けっこーあるいたんだけどな・・・川にでねぇ」
「うん、ずっとひまわり」
「ぜってーもうすぐキャンプじょうに出るはずなんだけどな、くそ」
「あはは、ぶんちゃん、くそっていったらだめなんだよ」
「るせーな、てか、おまえよくそんなのんきにわらってられるよな」
「え?」
「え?じゃなくてさ。おれたち、まいごになっちまったんだぞ!」

意味がわからないような様子でぽけっとしているわたしを尻目に「ばんメシのカレー、おれがつくらしてもらうはずだったのにさ」悔しそう零したブンちゃんは、近くに転がっていた手ごろな小石を思い切り蹴り飛ばした。ザッとスニーカーが湿った土を滑る音と同時、小石は向日葵の群集の中に消えていった。



さわ、さわ、と、風の音が聞こえる。背の高い向日葵のお陰でうっすらと影が出来ていたが、肌に纏わりつく空気は湿っていて、風も生暖かい。ジリジリと照りつける太陽を見上げる向日葵とは正反対に、わたしたちはほとんど首をもたげて歩いていた。腕に滲む汗と、拭っても拭っても流れてくる額の汗が気持ち悪かった。
にも関わらずわたしが笑っていられたのはほかでもない、ブンちゃんが一緒だったから。

夏休みのある晴れた日。知らない土地、見たことのない景色一面に広がる向日葵。それに心奪われたブンちゃんの後ろを、何も考えずにちょろちょろとついてきたわたしにとって、二人で迷子になるということに不安なんてちっとも感じなかった。
二人一緒だったら大丈夫。ブンちゃんがいれば、こわいものなんて何もないのだ。だってブンちゃんは、何だってできるわたしの自慢のお兄ちゃんなんだから。

「はぁ、マジはらへった」
「・・・・・・うん、おなか、すいた・・・かな?」
「こんなことになるなら、もっとおかしもってくりゃよかったぜぃ・・・」
「・・・んー・・・」
「あーもうマジあつすぎだろい!なんなんだよ ったくよー・・・」
「うん・・・・あつ、い・・・ね、・・・」
「くっそー はらへった。肉がくいたい。あ、そーだ、こんどの日よう日、うちでやき肉パーティ」

だから、安心しきっていたのかもしれない。
ブンちゃんがいれば、それでいいのだ。ひとりぼっちにならなければそれでいい。帰れなくたって、この左手を握ってくれるブンちゃんがいれば、それで。

瞬間、ふわ、と、一瞬身体が宙に浮いたような感覚に襲われた。向日葵の合間合間から差し込む太陽の熱がじわじわとわたしたちの体力を奪っていく。帽子はどこかに落としてきてしまったらしい。頭のてっぺんにじかに降り注がれる熱が後頭部で膨張してぐらり、視界が暗転。

「・・・?」

湿った土はひんやりと冷たかった。
ブンちゃんが何度も何度もわたしを呼ぶ声がだけが遠くの方で聞こえて、それに答えたかったのにおもうように返事ができなかったことが、哀しかった。

それと、からっぽになってしまった左手が淋しくて淋しくて仕方がなかった。













あの頃の夢を見たのはどれくらいぶりだろう。ずいぶんと久しぶりに見たはずのそれは、やけにリアリティがあったように思う。
あのときのわたしはあまり身体が強いほうではなく、ちょっと日の当たる場所で運動なんかをしてしまうとすぐにふらりと貧血を起こしてしまっていた。あのときもそうだ。強い日差しに当てられたわたしは簡単に熱中症になってしまった。ろくに水分も摂らず、熱のこもった頭をぐらぐらと揺らして、ただただブンちゃんの右手だけを頼りに歩いていたから。

ねぼけた意識の中で、じんわりと左手の先に熱を感じるのがわかった。まだ夢の続きでも見ようとしているのだろうか。たしか左手がからっぽになったところで夢は終わってしまったはずだったけれど。
思いながら、ゆっくりと机から顔を上げると、

「やーっと起きたか

にこ、とほほ笑むブンちゃんがひとつ前の席に腰かけていた。
左手の先に熱を感じていたのは彼の右手が添えられていたからだということがわかるとなんとなく恥ずかしくて、咄嗟に左手を引いてしまった。けれどそんなこと彼はちっとも気にしていないようで。横向きにした椅子の前脚を床から浮かせてぐらぐらとさせながら顔だけこちらを向いている。漂うグリーンアップルのかおりが、妙にわたしを安心させた。

「・・・ブンちゃん」
「ん?」
「部活・・・と、芥川先輩は?」
「ああ、それがさ。相手してたらいきなり寝ちまって。んでまぁ、一応ベンチで寝かせてんだけどさ。どんだけ器用なんだっつうか。いっつもあーなの?ジロくんて」
「う・・・ううん、そんなこと・・・」

また試合中に寝ちゃったのか。呆れるというより、ちょっと恥ずかしい。他校まできてそんなことをやってのけるだなんて。跡部先輩が聞いたらどんなカオするか。深いため息を吐く姿が容易に想像できる。

「んで、ほっとくわけにもいかねーだろい?」

ぷぅ、パチン。グリーンアップルのかおりがわたしの鼻を掠めた。「だからちっと抜け出してきたぜぃ」にやりと笑って目元でピースしてみせるブンちゃんは、からし色のジャージを羽織っていた。捲った腕にはいかにも重そうな黒いパワーリスト。ああ、やっぱりブンちゃんはあの立海大テニス部のレギュラーなんだ、と、改めて思う。かっこいい、わたしの自慢の。





自慢の。


お兄ちゃん、とはもう、思えなくて。





教室の窓から差し込む西日を受けてブンちゃんのきれいな赤い髪がきらきらと輝いている。まっすぐにわたしを見つめる大きな瞳は、光のせいでやけに潤いを増し、じぶんの心臓の音が騒がしくなっているのがわかって余計に緊張してしまう。ブンちゃんは、こんなにも大人びていただろうか。昔は―――さっき夢に出てきた彼は、背丈も手の大きさだってわたしとほとんど変わらなかったのに。今わたしの目の前にいる彼は、身長こそ高いとは言えないものの、ついさっき触れた指は太くてごつごつしていたし、肩幅の広いジャージはわたしが着たらきっとぶかぶかになってしまうだろう。それなのに、無邪気な笑顔はずっと昔からちっとも変わっていないのだ。

「なーに黙ってんだよ」

今度はツンとした感覚が鼻先を掠めて、だけどそれはブンちゃんのすっかり大きくなってしまった手がわたしの髪に触れたとたん、すっと引いた。ぐしゃぐしゃとわたしの頭を撫でまわすブンちゃんの手はやっぱり温かくて、その熱はじんわりとわたしのなかに沁みていく。



うまく話せないのはたぶん、意識してしまっているからだろう。
泣きそうになってしまうのはきっと、あのときのブンちゃんの泣き顔が忘れられないからだろう。
さっきからずっと心臓がバクバクして仕方がないのは、

「・・・ブンちゃん」
「おう。どした?」
「、わたし」

彼のことを、ひとりの男のひととして、好きになってしまったから。















こわいものなんてないのだ。ブンちゃんさえ、傍にいてくれるなら。

「ん?何お前、泣いてんの?」
「え」

気が付くとわたしの頬には熱を帯びたものが伝っていた。どうして涙が出てくるのだろう。ブンちゃんがすぐそこにいるというのに。哀しいことも、淋しいことも、何もないのに。

「怖い夢でも見てたのかよ、そんならそうと早く言えっての」

少しだけ慌てて、けれどすぐにいつも通り。お兄ちゃんの顔になるブンちゃんはやっぱりかっこいいけれど、心臓の奥がきゅうっと締め付けられるような感覚が苦しくて余計に泣きたくなる。

「ブンちゃんが、遠くにいっちゃう気がした」
「・・・え?」
「いつもブンちゃんの後ろ、付いていきたいのに、いつのまにか追いつけなくなっちゃう」

まだ、ねぼけているのだろうか。じぶんで自分が何を言っているのか、よくわからないまま思ったことをそのまま口に出してしまった。彼の大きな瞳はまっすぐにわたしを見据えていた。笑い飛ばすわけでもなく、嫌悪するわけでもなく。ただ、じっと。

「・・・なんだそれ」

表情を変えずに彼がぼそりと呟いた。きれいな球を形作った蛍光グリーンのガムをくちびるでパチン、としたブンちゃんは当たり前のように言う。

「だったら隣、並んで歩きゃいーだろい?」

それが何を意味するのか、わたしだってもう子供ではないのだ、彼の頬が少しだけ紅潮して見えたのは差し込む西日のせいではないということくらいわかる。ふわりと揺れる赤い前髪の奥で一瞬伏せた彼の瞳は少し、普段のそれよりも力なく見えた。
「さてっと」わたしの反応を待たずしてブンちゃんはすっくと椅子から立ち上がると、んんー、と大きく背伸びをした。長い腕、小柄なのに大きな体、ぽっこりと筋肉の浮き出たふくらはぎ、ひざこぞうの絆創膏。ただそれだけのことに見惚れてしまう。どこをとっても、やはり彼は正真正銘立海大テニス部のレギュラーなのだ。こんなにかっこいい男のひとを、わたしはほかに知らない。

「ホラ、行くぜぃ」

差し出された彼の右手にそっと左手を添えてみると、そのままぎゅっと握ってブンちゃんは楽しそうにわたしの腕を引く。まるで、あの頃みたいに。



(無人の机すらいとしい / 丸井ブン太)