6月初めの昼下がり。
寒い寒い冬がようやく終わったかと思えばいつの間にか季節は春を素通りしあっという間に夏が始まってしまったらしい。昨日の雨が嘘だったかのように晴れ渡る空には小さな雲一つ浮かんでいない。汗ばむ陽気に交じって6月特有の湿気が漂う空気のせいでイマイチ晴れやかな気分にはなれなかったが、2号館の北側にひっそりとたたずむ、今は使われなくなった体育倉庫の壁はひんやりと冷たく、新緑にまみれた大きな桜の木が直射日光を遮ってくれるお陰で日陰のない屋上よりかは幾分か快適な場所のように思えた。加えて人通りなど皆無に等しいこの場所は惰眠を貪るのにちょうどいい場所で。

ふと目覚めるとほぼ同時、午後の授業開始10分前を知らせるチャイムが鳴った。5時間目が音楽の授業であることを思い出して再び目を閉じようとしたとき、すぐ近くに知らない男の声が聞こえた。

「俺と、付き合ってほしい」

ぴしゃりと放たれた直球、いくら人気が少ないからって随分とまぁ真っ直ぐなボールを、と興味本位で声のした方を覗いてみると、どこかで見たような面。うちの部員でないことはなんとなくわかったが、じゃあどの部の誰なのか、絶対にどこかで見たような顔だったが。運動部の2年だろうと踏んで記憶をたどってみるとすぐにひっかかりは解けた。たぶんサッカー部の、やはり2年。ウチの2年のマネージャーと部活中にちょいちょい絡んでいるところを何度か見かけたことがある。ああ、そうだ、あいつだ。

「・・・ごめん、突然こんなこと言って」

少し静かな声で、しかしはっきりとその男は言葉を続ける。「でも、この気持ちは突然なんかじゃないから」よくもまぁそんな歯の浮くようなセリフが言えたもんじゃの。面と向かって言われた日には思わず吹き出してしまうんじゃないかと思ったが、ここからの角度じゃ男の顔はよく見えてもその相手は小柄な女子ということしかわからない。が、こっちもどっかで見たような姿。ひらひらと風にそよぐ髪とスカートを手で押さえながら、女は困ったように俯く。

「・・・えっと、あの・・・私」
「俺、本気だから」
「・・・・・・」
「返事は明日、聞かせてほしい。同じ時間に、ここで」
「え」
「じゃあ俺、先に教室に戻るから」
「あっ・・・」

一方的に走り去った男の背中を名残惜しそうに見つめる女の横顔をようやく視界に捉えることができた。
。うちの2年のマネージャーだった。






***






すっかり睡魔もどこかへ逃げてしまい、結局俺は5時間目の音楽も6時間目のホームルームも真面目に受けるハメになった。しかし、頭の中では昼休みの映像ばかりが何度も何度も繰り返し再生されていたことは言うまでもなく。

「仁王、部活いこーぜ!」

いつものガムのにおいを漂わせながら近づいてきた丸井に、ん、と短く返事を返したものの、やはり先ほどのとどっかの誰かさんとのツーショットが頭の中にこびりついたままで。

2年のといえば、まぁそれなりに可愛がっている後輩。馬鹿で単純で騙し甲斐のある面白いやつだ。ただ赤也とは違う種類の馬鹿で、簡単に言うと勉強の成績は馬鹿ではない。学習能力があるんだろう。だからだろうか、単純なくせに簡単に騙されてはくれない。思い通りにいかないことがよくあるので、それもまた余計にからかいたくなる理由のひとつだった。

「コンビニで新しい味見かけたんじゃ。ひとつ食べてみんしゃい」
「おっ マジ?サンキュ ・・・ってぇええええ」

差し出したパッチンガムにまんまとパッチンされてくれる丸井とも違う。

「・・・おまんも懲りんやつじゃのー」
「しょーがねーだろい!いちいち疑ってかかんねーよ普通!」




前に一度、にパッチンガムを仕掛けたことがあった。あのときも今と同じように、ごく自然にの前にガムを差し出したが、訝しげにパッチンガムを睨みつけた後「いらないです」疑いの眼差しを俺に向けた。丸井のようにいつでもどこでもガムを噛んでいるようなやつでもないし、赤也ですらこのくらい学習するのだ。仕方がないので今度はポケットからハイチュウを取り出し、一つ手に取っての前にちらつかせてみる。「これならどうじゃ?」するとの表情は一変、ぱぁっと光が差したように明るくなり、「わぁ、ありがとうございます、何味ですか?」わくわくした様子で両手を胸の前に差し出したので、「そいつは口に入れてのお楽しみダニ。まぁ、面白い味、とでも言っておくかの」ポトリ、との小さな手の上にハイチュウの包み紙を落とすと瞬間、の表情が固まった。手に落ちた重さですぐに気が付いたのだろう、中身が入っていないことに。

巧妙に空気を包んだハイチュウの包み紙を手のひらに乗せたのあの表情が未だに忘れられない。「どーじゃ。面白い味じゃろ?」パッチンガムを回避していたから余計に、なんだろう。くちびるをへの字のしたはひどく悔しそうな顔で俺を睨みあげながら言った。「仁王先輩のばか!」




「・・・ってかさ、俺今日面白いモンみたぜ」

にやり、とひどく良い顔で笑った丸井は蛍光グリーンのガムを膨らませた。

「昼休み、テニスコートの近くでさ。赤也が女子にコクられてた」
「ほぅ」
「なーんか割とカワイイ感じの子だったけど断ってたっぽくてさ」
「さよか」
「ありゃたぶんチア部の子だな。んで1年っぽい。後でからかってやろーぜ」
「悪い先輩がいたもんじゃ」
「お前に言われたくねー」

けらけらと笑う丸井の横で俺は内心見られていたのがたちの方じゃなくてよかった、とどこかで安堵していた。






***






なんで。
断らなかったのか。


理由その一。
男が強引に会話を終了させたため、ごめんなさいの一言すら挟む余裕がなかった。
その二。
どんな断り方をすれば今後変にギクシャクすることなく収まるのか、気の利いた断り方が浮かばなかった。
その三。
相手の男と同じ気持ちだったので、断る必要がなかった。


そんなことばかり考えながら走っていたから、だろうか。まだ6月になったばかりだというのに、頭の上からじりじりと焦げていくような日差しに当てられて頭がクラクラしていた。後頭部の奥を握りつぶされるような感覚に足が止まる。幸い周りに他の部員はいない。今外周を走らされているのは俺だけなんだから当然、か。真田のやろう、こんな天気のいい日に外周20周なんぞさせて殺す気か。思いながらも大人しくそれに従っていたのはたぶん。





「あ、仁王先輩」
「なんじゃ」
「外周走りに行くんですか?」
「口うるさい副部長を怒らせたでの」
「またこっそりさぼってたんですか?」
「・・・ちょーっと休憩しよっただけダニ」
「20周でしたっけ?今度はさぼっちゃだめですよ?」
「・・・・・・ピヨ」
「誤魔化したってだめなんですからね!私、ちゃんと見てますから。がんばってください」





自分がここまで単純な性格をしているとは知らなかった。
結局のところ、先に惚れた方が負けなんだろう。だったら俺は絶対に勝ちだったはずなのに、一体いつから形勢は逆転してしまったのか。

熱を帯びた頭ではいくら考えたって答えなど出ては来ない。が。
・・・馬鹿馬鹿しい。誰が誰を好いているか、その中にあるのが友情なのか愛情なのかそれとも同情なのか。目を見ればそのくらいすぐにわかる。少し会話をすればそれは確信に変わる。その上相手はあの単純馬鹿なマネージャーなのだ、答などわかりきっている、はずなのに。

やはり簡単にはいかないのだ。

わかりきっているのに、どうしてだ?
言わせたいと、あいつの方から言わせてやると、そう決めていたのに。

早いとこ捕まえておかなければならないと思うのは。






***






自信ならある。確信だってしている。ないものを挙げるとそればただ一つ、『言葉』。それに尽きる。

「仁王先輩」

顔を上げると、が屈んで俺を覗き込んでいた。の影が頭の上に落ちる。肩で息をするはひどく焦ったような表情をしていたが、だんだんとその強張った表情は解れていった。ごくん、と喉を大きく一度動かしたのは、その目に浮かんだ涙を飲み込もうとしてなのか。

「・・・どした?泣きそうな顔しとるが」
「・・・だって、仁王先輩が」
「・・・ん?」
「外周から、帰ってこないから・・・」
「サボっとるんじゃないか、って?」
「ちがいます!・・・倒れてるんじゃないかって。だって仁王先輩、暑いの苦手じゃないですか」
「それで心配んなって探しに来てくれたんか?気の利くマネージャーじゃの」

が無言で差し出した氷嚢を額に当てると、後頭部が収縮するような痛みがだんだんと引いていくのがわかった。晴れ渡る空とは真逆に今にも泣きだしそうなの顔は、どうやら俺がさせているらしかった。可愛い可愛い後輩にこんな表情させるなんて、天下の詐欺師も地に落ちたものだ。

「のぉ

はぁ、と息をついて名を呼ぶと、は無言のまま小首を傾げた。いつのまにか視線の高さが同じになっている。体育倉庫の冷たいコンクリートにだらしなく凭れ掛かる俺の真正面で、は小さくしゃがみこんでいた。

「こんな天気じゃなくても外周はえらいでのぅ。いちばんサボりたなるメニューダニ」
「え?」
「・・・これもペテンかもしれんぜよ。そんな顔しとるなら簡単に騙されてくれそうじゃ」

にやり、と口元だけで笑ってみせるとはぽかん、とちいさくくちびるを開いたまま数秒停止した。黙ってその様子を観察していると、意味をようやく理解したのか一瞬にして目つきは鋭くとがり頬はぷっくりと膨らんで「仁王先輩のばか!」捨てぜりふのように吐き出した。

いつものだ、と、安心したのもつかの間、「・・・本当に心配したんですからね」すぐに涙を浮かべた弱々しい表情に逆戻りしてしまった。怒っているのか泣いているのか、とりあえず自分がこの女にひどく大切に思われているということがわかり、心臓が一度だけ大きく跳ねた。ような気がした。

「さぼっちゃだめですよって言いましたけど・・・仁王先輩、今日はなんだか調子が悪そうに見えたし」

ふいにがそんなことを言いだすので思い当たる節を考えてみたが、朝食は普段から摂らないし昼飯も昼寝も丸井へのパッチンガムもいつもどおりにこなした。特に変わったことはしていない。強いて言えば、ああ、そうか。自分の可愛がっている後輩が知らん男に告白されている現場を目撃したことくらい、で。
その程度のことで自分のペースが狂うことなど考えられなかったが、現にこうして俺はさっきからこいつのお陰でいろんな厄介ごとに遭っている。走らされるわ頭痛になるわ目の前で女に泣かれるわ、踏んだり蹴ったりじゃないか。完全に踊らされている。この女に。

『惚れた弱み』というやつは本来なら俺が握っている側だったはずだ。手のひらの上で転がし、回し、躍らせ泳がせ弄べるのは俺の方だった、はずなのに。

「お前さん、好きなやつはおるんか」
「・・・え?」
「おるんか?」
「あ、いえ、えっと・・・どうしていきなり、そんなことを」

あからさまに動揺してはぐらかそうとするに追い打ちをかけるのも楽しいが、せっかくだからそれに付き合ってやろうと素直にその質問に答えてやることにする。

「別に深い意味はないぜよ。今日の昼休み、赤也が1年の女子に告白されとったって聞いての。なんとなくじゃ」
「・・・あ、そうなんですか」

『昼休み』に『告白』というキーワードをわざとらしく並べてみたが、の様子はだんだんと落ち着いていくばかりで、今日自分にも起きた出来事であることなどすっかり忘れてしまっているような素振りだ。「赤也って先輩から可愛がられるように見えて意外と後輩からも人気あったりするんですよね」他人事みたいに言いよるが、お前だって同級生のサッカー部員とテニス部の先輩から気に入られとるじゃろが。言葉にはしないが、含みを持たせた視線をに注いでみる。何も伝わらないのはやはり、決定的に言葉が足りないからだろう。お前も、俺も。

「のぉ
「はい、なんですか?仁王先輩」
「お前さん、好きなやつはおるんか」
「え、・・・だからその、えっと」
「なんとなくじゃ。そう深く考えなさんな」
「・・・・・・・・仁王先輩は?」
「・・・ん?」
「仁王先輩は、いるんですか?・・・すきなひと」

なぜ。
覚えてしまったんだろう。
じわじわと左胸に熱が帯びていく感覚と、軋む心臓の理由と、瞼の裏にこびりついたの顔。
いつまでも耳に残る声と一瞬触れた手の温もりに意識が酔いそうになる。
払拭しようとすればするほど、それは俺の中で重みを増していくからずるずるとここまできてしまった。
もう後戻りすることはできそうにない。
認めるしかないのだ。

「・・・おるよ」

俺が、好きなんだ。
お前を。