日を置いて、冷静になって、良いことなど何一つない。 いかにして相手から冷静さを奪うか、ということが重要になる詐欺において、特に恋愛など、相手側の冷静さを欠かせ、その場の勢いでどうこうしてしまった方が、楽に決まっている。 昨日の男は、随分とそこのところが分かっていないらしい。そう思っていた。 だから、自分がこんなにも動けない人間だとは思わなかった。 確かに、好きな人間がいる、と言った。他でもない本人に。 はあからさまに動揺して、少し引っ込んでいた涙をまた浮かばせそうになりながら、「そうですか」小さくつぶやいて、俯いた。ほら、決定的じゃないか。俺に好きな人間がいると知って、ここまであからさまに落ち込むのだ。 そうは思っているのに、安っぽいプライドが邪魔をして、その後何も言えなかった。一言、『お前だよ』と言えば簡単な話なのに、だ。 *** 馬鹿で単純で騙し甲斐のある面白いやつ、まぁそれなりに可愛がっている後輩。そういう対象に、自分から告白をするなんて死んでも出来ない。未だにそう考えている俺が、俺の中には確かに存在して、面倒だな、と思った。 結局そういうことを言い訳にして、今日の授業は片っ端から真面目に受けた。肝心な昼休みになっても教室を出る気分になれず、机についたまま、丸井ともそもそ昼食をとっている。 何度も時計を確認した。はまだ告白されていないだろうか、それとも今まさに返事をしているのだろうか。なんて返す? ごめんなさい?よろしくお願いします?私も好きでした? 「どうかしたのかよ?」 時計をジッと睨んでいると、さすがに不審に思った丸井が、自身の眉間をたたきながらそう尋ねてきた。「何でもなか」少し突き放すように短く答えてから、サンドイッチを口いっぱいに押し込む。食欲はなかったが、何かしていないと気がおかしくなりそうだった。 氷嚢を持ってきたときの、の泣きそうな顔が脳裏をよぎる。 自分は今後、あんなに自分を大切に思って、泣いてくれる人に出会えないかもしれないのに。 もうがいなかったら、自分はダメになってしまうかもしれないのに。 「あのさあ」 笑えるくらい思考がネガティブに入りかけた途端、再び声を掛けられる。正直鬱陶しかったが、タイミングだけには助けられた。目だけで目の前の赤毛を見ると、丸井は何でもなさそうにから揚げを頬張りながら、 「さっき、みたぜ」 と言ってのけた。思わずサンドイッチが喉に詰まりかけ、悟られないよう静かに飲み込む。 「ほう、それがどうかしたかの」 「すっげー落ち着きなく廊下歩いてるから声かけたんだけど、なーんか上の空っつーかさ」 「ただの寝不足じゃろ、最近流行っとるダニ」 「いやいやいや」 丸井は途端に椅子から腰を浮かせ顔を近づける。とっておきの話、もしくは秘密基地での作戦会議のような神妙な面持ちで、口の横に手を当てこっそりと言った。 「あとつけてったら、告白されてんの」 瞬間、クラスで騒いでいた男の話し声も、すぐ隣りで机を寄せて楽しそうにしていた女子の黄色い声も、全て聞こえなくなった。気がした。 切り離され、無音の空間をしばらく味わってから、じわじわ聴覚が戻ってくる。部長のイップスよりも厄介だ、と奥歯を噛んだ。 そうか、返事は終わっているのか、もう。 平静を努めようと思ってもうまくいかない。丸井が次に何を言うのか、奥歯をギリと噛みながら、何でもない風に待った。丸井はそんな俺をしばし至近距離で見てから、再び椅子に深く腰掛ける。表情はさっぱりとしていて、とても自分たちのマネージャーが告白された現場を見てきた野次馬には思えなかったが、そういえば昨日も赤也の告白現場を嬉々として見ていたじゃないか。こいつは嫌な奴だよ、と、以前丸井の話題に上がっていた『バカな幼馴染』という子に、教えてやりたくなった。 「ま、そんだけなんだけど」 「返事は?」 終わりにさせられそうになった話題に、思わず食い気味に聞いてしまった。これではせっかくの平静もさっぱりだ。一日置きたい。シャワーを浴びて、ゆっくり眠って、それからにしてもらいたい。 あの、馬鹿で単純でどうしようもないくらい、かわいい、を好きだと認めてしまってから、俺はどうもおかしい。絶対にから好きだと言わせて、絶対に優位に立って、それからおもしろおかしく毎日を過ごそうと考えていたのに。 丸井は嫌な笑い方をした。 「どっかの詐欺師じゃあるまいし、盗み聞きなんてするかっつーの」 *** どっかの詐欺師じゃあるまいし。 が俺を好きだとして、自分がだった場合俺に告白するかどうか、考えてみるとそれは限りなく0%に近いことに気付いた。 普段からからかっている俺が悪いのだ。が俺の言動を疑う様に仕向けたのは、他でもない俺自身だ。パッチンガムで指を痛めつけ、空気を包んだ紙できっとほんの少し心も傷つけた。俺のことを思って持ってきてくれた氷嚢も、その心配してくれた気持ちも、全部茶化して誤魔化して疑わせたのは俺の方だ。 今さら気のあるそぶりを見せたところで、信じようとは思えない。足りないのは『言葉』だけではなかったということだ。 「詐欺師、やめられんかのう」 今さらのいまさら、ついでに後悔するところもおかしい。きっと彼女は告白を受けてしまったに違いない。 中途半端に気のあるそぶりを見せる疑わしい先輩よりも、堅実でまっすぐで何よりストレートに自分を好きだと言ってくれた同級生と一緒にいた方が、しあわせに決まっているからだ。 「すげー遭遇率、またに会った」 「さよか」 もうどうにでもなれ。一度購買に行ってパンとプリンを買って来た丸井は、昼食の第二ラウンドへ取りかかっていた。すっかり食欲もうせ、サンドイッチを半分譲ったというのにだ。今だけはその食に対する強大な欲求が羨ましく感じる。 「なあ、お前、のこと好きなの?」 「どうじゃろな。赤也の方が好きかもしれん」 「・・・あっそ」 丸井は大層呆れ気味に溜息をつき、プリンの蓋をあけながら「、泣いてたけど」と零した。俺が何かを言う前に、昼休みの終わりを告げるチャイムが流れる。この分だとプリンを味わっている暇はないぞ、と他人事のように思い、少し現実逃避をしてから、「どうだか。引っ掛けようとしても無駄ぜよ」とだけ、返すのに精いっぱいだった。 「だから、いちいち疑ってかかんねーよ、普通」 チャイムの音も教室の騒々しさもいつも通りで、きっと違うのは俺だけなんだろう。 『仁王先輩のばか!』 の泣き顔ばかりがちらついて、やはり、気が狂いそうだった。 *** 今日のはエンカウント率を上げるアイテムでも持っているのだろうか。部活へ向かう道中、俺もを見かけた。いつも俺が昼寝をしている体育倉庫の壁を背にして、膝を抱えている。単純で馬鹿で、そういうがひとりでこんなところにいるのは意外で、一瞬だけ息が詰まった。 声をかけるべきか、かけないべきか。 正直、自分の気持ちに気付いたところで再びずるずると先延ばしにしてしまった自分からすれば、やはり話しかけたくはない。無かったことにして、が告白を受けたことも知らず、のうのうと一日を終えられたら、また冷静な頭で次の一日を迎えられる気がした。 それなのに、目が合う。 いつもはしてやったりと思うくせ、今日だけは罰が悪くすぐに視線を外したが、目があった以上無視するのもおかしい気がして、仕方がなく重い足を体育倉庫へと向けた。 「うちのマネージャーさんは、今日はサボりかの」 倉庫が作る影の中に入り込めば、先ほどまで後頭部を焼いていた日差しから解放され、幾分楽になる。少し迷ってから、彼女の隣に腰かけた。倉庫の影が先でぷつりと途切れ、その先からは真っ白な日差しの世界が広がっている。しばらくあそこには戻りたくない。 心なしか暑く、汗が出てきた。シャツの襟口に指を引っ掛け、空気を入れる。 「ちょっと休んでから行きます。ごめんなさい」 「氷嚢でも持ってきてやろうか?」 「・・・仁王先輩は、すぐそういうこと言う」 彼氏が出来てスッキリ、という女の顔には見えなかった。まあ、当然か。全部俺が悪いのだ。落ち込む元凶がすぐ隣りにいるのだ。 首筋に汗が伝うのを感じながら、「」と声を掛ける。縮こまっていた彼女の肩が少しだけ揺れた気がした。 「さっき、丸井がお前さんを見たそうじゃ」 「・・・そうですか」 「サッカー部のイケメンに告白されとったんじゃろ?」 「・・・・・・」 「よかったな、彼氏が出来て。学園生活楽しくなるな」 『言葉』は、大切なのだと思う。なにせ言葉がないせいで――正確にはそれだけではなかったが――俺たちはこうして、わけのわからない状態になっている。お互い好きだとひとこと言ってしまえば、それだけで良かったのに。倉庫が作る影のように、くっきりと物事は分かれられないらしい。そうさせているのは俺だけれど。 その大切な言葉で、俺はを傷付けている。自分自身も傷つける。 現に、小さく俺を睨んだの目は真っ赤だった。 「仁王先輩のばか」 「そうじゃの」 「どうせ、私のことわかりやすいって思ってるくせに」 「ああ」 「知ってるくせに、わかってるくせに」 「・・・・・・」 「すぐ、そういうこと言う」 乱暴に目元を手の甲で擦ってから、さらに赤くなってしまった目で、一心に俺を見上げている。 なあ、言葉が足りなかったんだよな、俺も、お前も。あと少しのところで確信が持てなくて、踏み込めなくて、プライドが邪魔をして、疑って。面倒くさいよな、本当に。 蝉の声が、聞こえた気がした。まだ蝉の季節ではないだろうに、それでも何か、夏がやってくるのを感じた。肌を焼き体力を奪い馬鹿みたいに暑くなるあの季節だ。俺の大嫌いな、夏が来る。 ほら、頭の中が沸騰しそうなくらい熱い。 頭よりも先に体が動いていた。 気が付いたら、俺はの左肩を倉庫の壁に押し付けて、何も言わず、何も感じず、ただあたりまえのようにキスをしていた。昨日はまだ湿っていた土が今日はもう完全に乾いている。そんなことくらいしか考えられなかった。 唇を離し、そのまま鼻先が触れあいそうな距離で彼女を見つめると、やっぱりはまた泣いていた。俺は彼女を泣かせてばかりだ。俺だけが泣かせていられたら良いのに。 「せんぱいのばか」 絞り出すように、それだけ言われる。思わず目元が緩むのを感じた。きっと嫌な笑い方をしているのだろう。 ――自分は今後、あんなに自分を大切に思って、泣いてくれる人に出会えないかもしれない。 ――もうがいなかったら、自分はダメになってしまうかもしれない。 だから、もう良い。がたとえサッカー部の告白を受けたところで、自分のものにしてしまおうと、妙に冷静になってしまった頭で、そう思った。後付けのように。 「・・・先輩、あの・・・私、」 「。その目で部活は出られんじゃろ、俺が適当に言っておくから、今日は休みんしゃい」 たぶん、好きだと言ってくれようとしてくれたその言葉を遮るように言って、彼女の頭を撫でる。あんなに言わせたかった言葉なのに、今はもういらない気がした。どうだろう、にはいるのかな。それだったらずいぶんと悪いことをしている。 自分がこんなにも動けない人間だとは思わなかった。ほら、またこうやって、ずるずると。もう病気としか思えない。先延ばしにしたがる病気だ。さて、次はどちらに転ぶだろう。寝て起きて冷静になった頭で、それでもやっぱり俺は、が好きで好きで仕方がないと思う。 「な。また、明日」 |