「それにしても、お前さんは幼馴染の前では随分とリラックスしているようじゃの」と、マフラーの隙間からふわっと白い息を吐き出しながら言った仁王先輩は、現在はそんな会話をしたことすら覚えているのか疑わしい様子でコートに立っていた。立っている、はずだ。
コートの上には柳生先輩と真田先輩がそれぞれラケットを構えており、真田先輩のそれが仁王先輩のイリュージョンなのか、はたまた柳生先輩の方になっているのか、本物の柳生先輩は、真田先輩はどれなのか、全く分からなかった。試合相手も同じようで、先ほどから何度も困惑した表情を見せている。仁王先輩がよく好む顔だ。

ついさっきまで、肩を並べて歩いていたのに、一たびコートに入るとさすがは王者立海のレギュラーというか、ずいぶんと雰囲気が違って、緊張した。あの人とあんな話をしていたのか、と思うと、彼ら(のうちどちらかが仁王先輩であることは間違いないはずなので)がボールを打つたびに、心地良い音が心臓までダイレクトに響く。

「やっぱすげーなあ、ぜんっぜんわかんねぇよ」

ベンチのすぐ隣に腰かけていた赤也くんはしばらく試合の様子を黙ってみていたけれど、ぎゅっと眉を寄せてほんの少し不機嫌そうに言った。自分の番じゃないからつまらないのかもしれない。

「赤也くんはどっちが仁王先輩だと思う?」
「んー、やっぱ真田副部長かな。いや、でも待てよ・・・」

顎に手をあて、大仰な動作で考えこむ赤也くんを見て、思わずくすくすと笑ってしまう。仁王先輩が見たら、大喜びするだろう反応なのに、とうの本人はそれどころじゃない。ぴゅうと風が吹いて、ネットが揺れた。相手選手の打ったボールが風に流されアウトになる。「仁王先輩は風も操ってたりして」と赤也くんはどうでも良さそうに言ったけれど、私はぴゅうぴゅうと吹きさらされるむき出しの膝が痛いなあと思っていた。仁王先輩を見るのに忙しいから確認していないけれど、きっと真っ赤になっているに違いない。



『試合にやってきたただの女テニ』がこうして男テニコート脇のベンチで選手と一緒に見学できるようになっていたのは、仁王先輩のおかげだった。すっかり仁王先輩にだまされた私はそれからろくな会話が出来ず、仁王先輩の言ったことにええだとかはいだとか、そんなことしか返せなくて悔しかった。

二人で試合会場に入った私たちを取り立ててはやし立てたのは丸井先輩と赤也くんで、とくにクラスメイトの赤也くんはおもしろそうに私たちの様子をからかった。普段から赤也くんにはよくからかわれているし、そんな赤也くんは普段仁王先輩にからかわれているらしいので、いつもの仕返し、というのも考えられる。とにかくやいのやいのと中学生男子のようにはやし立てられ、せっかくなら良い場所で見学していったら、と幸村先輩まで笑いながら言うのだった。

男テニにやいのやいのと囲まれた私を、女テニの面々はすこし妬ましそうな目を向けつつも、まあ彼らにつかまってしまったのなら仕方ないよねと言って、各々の試合に向かっていった。2年でよかったのか、よくなかったのか・・・。こういうの、あとでこわいから、あんまりしてほしくはないなあと思うけど、やっぱり近くで仁王先輩が――それがたとえどれが仁王先輩だか分からないとしても、見られるのは純粋にうれしかった。遅刻しなくてよかった、ほんとうに。機会があったら渡そう渡そうと思っていたものも、結局渡せずにここまで来てしまったけど。

「でもさ、ホントに付き合ってんのかよ?」
「えっ!? つ、付き合ってないってば!」
「だよなあ。からかっといてアレだけど、緊張しっぱなしだったもんな」
「うっ」

赤也くんにバレてしまうくらいなのだからあからさまに態度に出ていたのだと思う。きゅうに恥ずかしくなって、どんどんあつくなっていく頬を冷え切った指先であたためた。しし、と赤也くんは少し笑って、ベンチから投げ出した足をぶらぶらさせる。はやく動きたくて仕方ない様子だ。

「さっき仁王先輩にも言われた。幼馴染の前ではリラックスしてるねって」
「なんだそりゃ。なんで先輩がそんなこと知ってんだよ」
「いろいろあって」
「いろいろねぇ」

ふうん、と相槌を打つのと同時に、「サーティーラブ!」柳生先輩のレーザービームが見事に決まった。それじゃああっちは本物の柳生先輩なのかもしれない。じっくりと真田先輩を見てみても、本物と偽物の区別がよくわからなかった。本物の真田先輩は、たぶんコートの脇で堂々と立っている、あれだろうとは思うのだけれど。

「俺といてもフツーなのに、なんで仁王先輩だけそんな緊張すんの?」

あっけらかんと尋ねられ、思わず何も飲んでいないのにむせそうになった。息だけが詰まる。なんでって、そんなの仁王先輩は特別な先輩だから・・・なんてことを赤也くんに言えるはずもなく、けれど濁して答えたところで、このクラスメイトはたぶん理解してくれないのだろう。それで、他の人に片っ端から同じ質問をするに違いない。それは困った。「えーっと、なんでだろうね」うまい言い訳が思い浮かばず視線をうろうろさせていると、

「俺が前にからかいすぎたんじゃ」

仁王先輩の声を出す柳生先輩と目がかち合った。思わず赤也くんと顔を見合わせる。

「仁王先輩はともかく、柳生先輩は真田副部長のマネなんてどうやったんスか」
「それは企業秘密ぜよ」

同じチームにも手の内は見せないらしく、口をあんぐり開けて驚いている赤也くんを上機嫌で見下ろす。どうやら休憩時間に入ったようだった。対戦相手のひとたちは、不服そうな顔で向こう側のベンチの人と話をしている。慌ててベンチに置いてあったドリンクを手渡すと、そのときにはいつもどおりの銀髪が冬の突風になびいていた。

「あの・・・仁王先輩?」
「な?
「あ・・・え?」

仁王先輩にからかわれすぎたことなんてあっただろうか。首を傾げると、「な」もう一度言われた。面倒くさいからそういうことにしておけ、ということらしい。「あ、はい・・・」私が勝手に緊張しているだけなのに、仁王先輩を悪者にしてしまうようなのが、かなしかった。ちゃんと説明できなくてごめんなさい。ドキドキと、こんなときでも心臓がうるさいので、ばか、と心の中で自分をののしった。ヒミツの共有、というものが、うれしかったのかもしれない。

「先輩は加減ってモンを知らねーんスよ、俺なんて何回痛い目みたか」
「そうだったかの」
「そーっすよ!」

仁王先輩のことは、よくわからない。あまり女の子と会話をする人でもなかったし、どことなく話しかけづらい雰囲気を持っている人だったから、こういう風に会話できるようになるなんて、最初のころは思ってもいなかった。ただ、かっこいいなあ、すてきだなあ、って、試合を眺められたら、それで良かった。




タオルを一度、貸してもらったことがある。

30球サーブが入るまで帰っちゃいけませんよ、という練習で、私だけなかなか、最後の1球が入ってくれなかったのだ。何度も何度もチャレンジするのに、入ってくれない。あまりにも入らなくて、帰れなくて、半泣きになっていた。

夏の炎天下だった。日は沈んでいるのに、何度も何度もチャレンジしていたせいで、内側から熱が上がって、少しくらくらとしていた。そうしたら、水で絞ったタオルを、頭の上にべちゃっと落とされたのだ。振り返ったら、それが仁王先輩だった。あの仁王先輩がそういうことをする人だとは全く思っていなかったので、もしかしたらこの人は仁王先輩のフリをした柳生先輩なのでは、と疑った。けれど、

「まだ使ってないから安心しんしゃい」

私の訝しむ目をどう受け止めたのか、ちょっと不服そうに口をとがらせたのは、どこからどう見ても仁王先輩だった。ありがとうございます、頭を下げながらそうこたえると、うれしそうに目を細めたのも覚えている。それまで遠目でみていた仁王先輩、という人はいつ見ても飄々と、どちらかといえば表情なくふらふらしているような人だったので、私は自分の記憶とのギャップに、たいそうおどろいた。





たぶん、それから、もう、だめだったのだ。
いっかい意識しはじめたら、仁王先輩がたいせつな人になるまで、ちっとも時間はかからなかった。仁王先輩は覚えていないだろうけれど、私はいつか、そのときのお礼にあたらしいタオルを渡せたらな、と思っていて・・・今日、鞄のなかにはいってはいるのに、なかなか言い出せない。男テニはモテるし、そうでなくても仁王先輩は人気があるだろうから、タオルなんて山ほどもらっているのかもしれなかった。
そうだ、仁王先輩が、こんなたいした話をしたことのない女テニ部員の相手をしてくれるはずがない。


「ほら、お前さんそうやって、すぐガチガチになる」

仁王先輩と赤也くんのやりとりをみながら回想に浸っていると、仁王先輩は口元に手を当てて、小さく笑った。形の良い唇から白い息が漏れている。他の人たちは試合中半袖になっているのに、よほど寒がりなのか仁王先輩は長袖のジャージに袖を通したままだった。

「そんな、ガチガチなんて・・・、・・・すみません」
「なんでが謝ってんだよ、仁王先輩が悪いんだろ?」
「・・・ほう。言うの、赤也」
「だ、だって先輩が自分で言ったんでしょー!」

赤也くんがいてくれて助かった。思わず笑ってしまうと、安心したように仁王先輩が息を緩める。

「ま、見てておもしろいから、気にしなさんな」

気にしているそぶりを見せたのは仁王先輩だったのに。「俺もどうかしてたんじゃ。調子乗ってたのかも知れん」ありがとう、と言って飲み終わったドリンクを手渡してくれる。何だかマネージャーのようで胸がくすぐったかった。渡されるとき指が触れあって、それにもいちいちドキドキしてしまって、たぶん、私はおかしいのだと思う。今となってみると、仁王先輩とああして二人で並んでやってきたのが、夢のように思えた。どうして仁王先輩がわざわざ若くんの姿をしてまでやってきたのかは、まだわからない。





「違うよ」


仁王先輩は靴をとんとんと地面にたたきながら、唐突に、けれど緩やかにそう言った。
私は仁王先輩の、この落ち着いた大人っぽい声がとても好きだと思う。思うのに、その大好きな声で言ってもらったのはわけのわからないことだ。違うって、何だろうか。今はそんな話をしていたのだっけ?

「・・・え、なにがですか?」
「質問の答えじゃ。もう忘れたんか?」

しつもんのこたえ?
首を傾げながら仁王先輩を見上げていると、だんだん私を見下ろしている目が弧を描いてくる。「何の話ッスか」私と同様にわけのわからない様子である赤也くんは、私と仁王先輩を交互に見た。質問、などしたっけ・・・。ぐるぐる思考を戻らせて、戻らせて、戻らせて、それから、ぼあ、と顔が熱くなった。白い息が舞い上がる。まさか。

仁王先輩にとって私はただの後輩ですか?

だって、実際、口に出していなかったのに。実際口をついて出た『質問』は、『お誕生日おめでとうございます』というそれで、それで・・・それなのに。
仁王先輩は私が『質問』をしたときと同じように、くつくつと喉の奥で笑っている。「えっと、あの、その・・・」私はそれを見上げながら、ぱくぱくと口を開け閉めすることしかできない。白い息が途切れ途切れになる。そんな私をおもしろそうに笑いながら眺めていた仁王先輩は、ふと後ろを確認して、

「おっと、時間じゃ」

大変なことを言ったにもかかわらずあっさりと背を向けてしまった。瞬きする間に、その後ろ姿は真田先輩のものになっている。あれ、と思って柳生先輩の方を見ると、彼は彼の姿のまま、もうコートで仁王先輩を待っているようだった。やっぱり、なにがなんだか、仁王先輩はすごい人だ。

「ちっ ちがうなら、何ですか?」

真田先輩の後ろ姿は静止している。仁王先輩の言うとおり、私は意外に積極的なのかもしれない。意外に、というのはよくわからないけれど、とにかく、今聞いてしまいたかった。
ただの後輩じゃない。それなら、仁王先輩にとって私って?

「そういえば、
「・・・・・・はい」
「帰り、日吉のやつが約束通り迎えにくるそうじゃ。誕生日プレゼント楽しみにしとると」

約束?若くんと?
若くんは幼馴染だけれど、最近はお互い忙しくてなかなか会う時間が合わない。今日久しぶりに話せたと思った若くんも実際は若くんではなかったのだし、そもそも、本物の若くんが今日のことを知っているわけがない。なんにも話していないのだから。

ぐるぐる、思考をめぐらせて、私はそろそろいい加減に、この先輩の癖がわかってきた。ドキドキと、心臓ばかりうるさい。風はこんなに冷たいのに、頬ばかりあつくなってく。となりには赤也くんがいて、私はない脳をフル稼働させて、どうしたらこの人を繋ぎとめておけるのか、そればかり考えた。

「・・・はい、校門のところで待ち合わせてるんです」
「ほうかほうか」

どうやら彼の線には触れたらしい。笑ったのか真田先輩の背中は僅かに揺れ、白い息が風に流される。
もしもほんとうに、校門前で待っていて、若くんがきてくれたら。そうしたら、今度こそ、あのときはありがとうございましたと言って、タオルを渡そうと思う。誕生日プレゼントにしては質素だろうか・・・せいいっぱい、なんだけど。
けれど、仁王先輩ならよろこんで受け取ってくれる気がした。大丈夫、今日は特別な人の、特別な日だもの。ほんとうに、先輩の言うように、もっと積極的になろう。

・・・今日くらいは。

「相変わらず仁王先輩わけわかんねー、何の話だったんだ?」と尋ねてくる赤也くんにも何も言えなくなってしまって、ただ赤い顔を隠すように自分の膝とにらめっこをした。外気にさらされていた膝の上には、いつの間にか白いマフラーが乗っている。




寒晴ソナタ