立海大付属中学校男子硬式テニス部。関東大会15連覇、全国大会2連覇という輝かしい成績を持つ、全国1位の強豪校。ともなれば、どこの学校も彼らをマークし、選手の個人データ集めに奔走する。我が氷帝学園中等部硬式テニス部も例外ではなく、私は神奈川方面行きの電車に揺られながら、ひとまず現時点でのデータを集めたノートにかじりついていた。12月5日月曜日、夕方のことである。 「酔いませんか、それ」 隣りに座った日吉くんは、何をするでもなくぼんやりと窓の外を眺めていたけれど、ふとこちらを見下ろして言った。窓から攻撃的に入り込む西日に照らされ、彼の薄い茶色の髪もオレンジ色に染まっている。長い前髪の隙間から見える剣呑な瞳は相変わらずだ。 「・・・電車って酔う?」 「知りませんよ。先輩、車移動だといつも酔っているイメージでしたから」 「車はダメだねぇ、あのにおいでもう酔っちゃう」 理解できなかったのか同意を得たのか、はあ、と実の籠ってない返事をしながら日吉くんはわずかに眉を寄せた。 一つ下の後輩であり、テニス部の準レギュラーである日吉くんがこうして隣にいるのは、跡部くんのせいだ。うちのテニス部にはマネージャーがわんさかおり、まあだからとどのつまり、ちょっと暇になってしまうマネージャーというのも、確実に存在する。今日はそれが私の番だった。特にすることもなく部室の掃除をしていた私とかち合わせた跡部くんは、くっきりと眉間にしわを作って、「そんなに暇なら仕事をやるよ」と言ったのだった。彼とは同じクラスでもあるけれど、クラスにいるときは案外おとなしいのだけれどなあ、と私は、ジャージに袖を通すたびに思う。如何なく王様ぶりを発揮しはじめた跡部くんは興が乗って来たのか、「日吉にも行かせるか」とひとりごちた。「お前ひとりじゃあ、ろくにデータ収集もできなさそうだからな」と。失礼な話だ。あまりにも失礼な話だったので、私はこうして、電車内の事前学習にいそしんでいる。 あれほど人がぎゅうぎゅう詰めにされていた電車内も、神奈川に近づくにつれ人口密度が減っていった。みんなそんなに都会がいいのだろうか。人口密度の少ない電車には久しぶりに乗ったので、なんだか遠足のような気分になりわくわくし始める。ノートを膝の上に放置したままあたりをきょろきょろ見回していると、「余裕ですね」日吉くんの棘が頭上から容赦なく降ってきた。 「もうね、バッチリですよ」 「バッチリですか」 ぐっと握りこぶしを作って自信満々になった私を一瞥して、日吉くんは私のノートを取り上げた。「あ、」奪い返そうと思っても、ひょいっと軽くいなされてしまう。日吉くんの実家は古武術の道場をしているのだっけ?あまりにも自然な動きだったので、思わずまじまじと見つめてしまった。きっとテニスと同じように、たくさんたくさん練習してきたに違いない。彼はそういう人だ。 「俺が質問しますから、答えてください」 「うん、あっ、テスト?いいよいいよ、まかせて」 彼に向き直ると、日吉くんはノートを広げて、上から下までさっと目を通しながらページを捲る。「それじゃあ、まずは部長の幸村精市さんから」いきなりすごいところから質問されるらしい。思わず肩をこわばらせると、日吉くんはそれを一瞬視界に収めてから、再びノートへ目をやる。 「利き腕」 「右」 「プレイスタイル」 「お・・・オールラウンダー?」 「身長体重」 「・・・175cm・・・?」 「・・・・・・」 「の、ろくじゅう・・・」 「61kgです。誕生日」 「誕生日なんてもう関係ないよ!」 「3月5日。何がバッチリだったんですか」 心底あきれ返った目を向けられ、言葉に詰まった。「誕生日とか、もう関係ないよね?」すっかり小さくなりながらもう一度言い訳をすると、重い溜息で返される。どちらが年上なのか分からない。日吉くんが入部したときからの付き合いだけれど、彼のことは未だによくわかっていなかった。仕事がないとはいえ、私が担当しているのが正レギュラーだから、という理由もある。 「何から相手の弱点が取れるかなんてわかりませんよ。必要ない情報なんて無いんじゃないんですか」 そうして未だによくわかっていない日吉くんの口からそういった言葉が出てくることも、意外だった。やっぱり私は彼のことをよくわかっていないらしい。ほんとうに、どちらが年上なのか。 「日吉くんの方が情報収集にむいてそう」素直な感想を口にすると、「先輩より向いてない人も少ないんじゃないんですか」再び棘が降ってきた。・・・褒めたのに。付き人を日吉くんにした跡部を少しだけ恨んだ。同じ二年生だったら鳳くんの方がよかった。樺地くんだって、話しづらいけど良い子なのに。 再びページを捲り始めた日吉くんは、さっと目を通していたのを一か所でとめ、「へえ」と小さく零した。「どうかした?」「いえ、どうもしません」ガタンガタン、電車が一際大きく揺れ、停車した。聞き覚えのない駅名。乗ってくる人は一人だけ。これで立海大周辺になると再び人が乗り込んでくるというのだから、不思議な感覚だった。 「仁王雅治」 「えっ」 「利き腕」 「あ、まだやるの?えっと、えっと、左」 「プレイスタイル」 「オールラウンダー」 「身長体重」 「175p、62kg」 「・・・誕生日」 「12月4日。あ、昨日だったんだね、おめでとう」 「・・・・・・好きな女性のタイプ」 「かけひき上手な人。ねえ、さすがにこれは必要ないんじゃない?」 日吉くんはノートを膝の上に置いて、ジッと私を見つめる。「随分詳しいんですね」剣呑な瞳が細められ、一層するどくなった。日吉くんはもっと柔らかい表情をしていたらかわいいのにな、と私はいつも思う。 「そうかな?前に一回練習試合をしたことがあって、そのときに調べたけど」 一年生の初春だったから、まだ日吉くんが入部してくる前だ。次世代育成の為にと、練習試合をしたことがあった。そのとき私が受け持っていた選手とかち合ったのが仁王くんだったので、まだペーペーの、やる気を十分に持っていた私は、一生懸命仁王くんのことを調べたのだ。そのときの私は、まだいる情報といらない情報の取り捨て選択が上手にできなかったため、いらない情報までわんさか仕入れて、仕入れすぎたせいで仁王くんにちょっと痛い目を見させられた記憶がある。仁王くんについてあまり深入りしてはいけないぞ、ということもその時に学んだ。ちょっと嫌な事件だったので、正直立海とはもう二度と関わりたくはなかった。が、上が決めたことなら仕方ない。 もう春だというのにまだマフラーを巻いて、フェンスに寄り掛かっていた仁王くんを思い出す。その時はまだ銀髪も短く、春風に遊ばせていた。「これに懲りたら、もう下手な詮索はしないことじゃの」そう言って、にんまりと笑った。あのとき彼は本当に一年生だったのだろうか。記憶の中の彼が随分と大人びていたので、もしかしたら現在の記憶とごっちゃになっているのかも知れなかった。 少しぼんやりしていたらしい。は、と気づいて顔を上げると、日吉くんは先ほどと寸分たがわぬ姿勢のままこちらをじっと見ていた。初春のフェンス、というと、日吉くんとも思い出深い場所だったはずだ。私はなんだかフェンスにゆかりがあるらしい。どれも良い思い出ではないので、できれば今後近寄りたくない場所ではある。 「出来ればその先輩と当たりたいですね」 「仁王くんと?やめておいた方がいいよ、日吉くんみたいな子はすぐ引っかかっちゃうから」 だいたい立海の正レギュラーと氷帝の準レギュラーでは格が違いすぎる。当事者とはいえただのマネージャーなので、そこのところはシビアに考えられた。うちが総勢力で当たったって、立海には勝てる気がしない。もっともっと、がんばってもらわないと。 「やってみないと分からないじゃないですか」 そういう相手と戦ってこそ、下克上です。日吉くんは持前のポジティブさと相変わらずの持論を持ち出して、ひとりごちるようにそう言った。こういう子は、たぶんこれからもっと伸びる。数ヶ月後には時期部長何てささやかれるかもしれないな。 日吉くんと出会ったのは初春のフェンスだった。氷帝テニス部のコートをぐるりと囲むアルプス式ベンチの、それをさらに囲むフェンス。向こう側から熱心にこちらを見ている初等部の子がいたので、声を掛けたのだ。確か、仁王くんに痛い目を見させられた翌週だった気がする。翌週でなくても、それほど日はあいていなかったはずだ。その当時私は某詐欺師のせいでめっきり滅入っていて、『初等部から見学にやってきたかわいらしい未来ある子』から癒しを得ようと思っていた。 キミはテニス部に入るの?と私は尋ねた。彼はジッとこちらを見て、それからあっさり無視をした。視線をたどってみれば、コート上に立っている跡部くんへとたどり着く。跡部くんは女の子だけじゃなく男の子まで魅了してしまうらしい。熱心なその横顔を見つめ、こんな子をサポートできたら楽しいだろうになあ、と私はぼんやり思った。 「入ります。絶対あの人を超えて見せる。下克上ですよ」 ちょっと不思議な子なのかな、とも思った。やっぱりこんな子はサポートしたくはないぞ、とも。 ちょっと懐古している間に立海の最寄駅に着いていたらしい。事前に調べた駅名と、それからもう思い出したくもない記憶の中の駅名と、車掌さんが発した駅名が一致したので、腰を上げた。駅は想像以上に閑散としており、改札の向こう側、出入口に取ってつけられたようなエレベーターが印象的だった。エレベーターの両端には、どちらからでも上り下りできる階段がつけられている。都会の駅に慣れてしまうと随分小さな駅だったけれど、先ほどから停車してきた駅よりは、一段階栄えているようにも思えた。磯の香が鼻をくすぐる。想像以上に海から近いのかもしれない。記憶の中ではそんなことなかったのに。 立海大周辺まで行くバスがちょうどやって来たので乗り込み、最後部でガタゴト揺られる。さすがに車はすぐ酔ってしまうのでノート類はカバンにしまい込んだ。知ってか知らずか、窓側を譲ってくれた日吉くんはもしかして少し優しいんじゃあないのかと、都合の良いことを考えてしまう。 「日吉くん、偵察って初めて?」 「そうですね」 「制服で来ちゃったから、バレないようにしないとダメだよ」 精一杯先輩ぶって教えてやると、そんなの当たり前でしょうと言うような目で見られてしまった。コートを着ているとはいえ、分かってしまうものは分かってしまうので。日吉くんの髪型はちょっと目立つ気もするけれど、立海に入ってしまえばそんなことはないのだろうか。今さら何か隠すものを持って来ればよかったかなあ、などと考えても、バスはガタゴト学校へと近づく。あんなに長い時間電車に乗っていたから感覚がマヒしているのか、想像以上にあっさりとバスは目的地に停車した。 「おや、珍しいやつらがおるの」 ステップを降りると、一番会いたくなかった人にさっそく見つかってしまった。やはり変装グッズでも仕入れてどうにかするべきだったのだ、彼のように。 仁王雅治はバス停前にあるお店の列に並んでいたようだったが、こちらを見つけるなりあっさりとその列を離れた。マフラーに顎をうずめ、寒そうに肩を竦めている。 「にににおうくん、こんにちは」 「こんにちは、さん。久しぶりじゃな」 仁王くんはにんまり笑ってひょいひょいっとこちらに近づいてくる。彼がこういう顔をしているときはろくなことを考えていない、ということを私は去年のフェンスで思い知ったので、思わず隣りに突っ立ったままの日吉くんのコートの袖をつかんだ。彼はチラとその手を見下ろしはしたけれど、振りほどくことはせずただ黙って立っているだけだった。ブオン、音を立ててバスが発車する。 「こっちは氷帝の日吉だったかの、昨日はどうも」 「は?」 「いや、こっちの話」 一定の距離まで近づくと、仁王くんはそれ以上こちらには来ようとしなかった。まるで悪の帝王に立ち向かう勇者のように日吉くんは堂々たる立ち方で睨みつけている。仁王くんよりも幸村くんの方が悪の帝王らしいし、日吉くんはどう良く見積もっても勇者には見えない。助けてくれーとでも言うように袖をつかんでいる私が思って良いことではないだろうけれど。 立海大付属中学校男子硬式テニス部。関東大会15連覇、全国大会2連覇という輝かしい成績を持つ、全国1位の強豪校。ともなれば、どこの学校も彼らをマークし、選手の個人データ集めに奔走する。我が氷帝学園中等部硬式テニス部も例外ではないが、私は日吉くんの後ろに隠れながら、なるべくなら立海のデータだけ穏便にいただきたいなあと思った。12月5日月曜日、夕方のことである。 風花ワルツ |