私たちは学園の最寄駅を後にすると、偵察の成果報告を行うべく学園に向かって歩いていた。辺りは既に暗く、駅前の繁華街から一本中に入ると、街灯がぼんやりと私たちを照らした。隣を歩く日吉くんをちらと窺ってみるとどこか不機嫌そうな面持ちだったので、そりゃあ日吉くんは鳳くんみたいにいつもにこにこ会話をしてくれるような子でも、樺地くんみたいにいつも優しくて穏やかな表情をしているような子でもないのだから、いつもの日吉くんと言ってしまえばそれまでなんだけど、でもやっぱり不機嫌に見えてしまうのはその原因の候補のひとつが思い浮かんでしまっているからで。

「日吉くん?」
「何ですか」
「・・・えっと、そのー・・・」

もしかして怒ってる?と、訊いてしまえば簡単なんだけど、きっと日吉くんは「怒ってる?」と訊かれると余計に不機嫌になるタイプのひとだと私は思うのだ。だから、安易に「怒ってる?」なんて口にしてしまえばこの状況が余計に悪化することは火を見るよりも明らかで、だけどほかにどんな訊き方をしたら良いのか、気の利いたセリフが咄嗟に出てくるほど私のボキャブラリーはウェットに富んでおらず、つまりはこんな風に言葉を詰まらせ、結局は日吉くんの不機嫌を加速させるだけだった。冷たい視線がちくちくと胸に突き刺さる。

「日吉くんは、仁王くんが苦手なの?」
「は?」

横目に私を見ている日吉くんの眉間には皺が寄っていた。「何ですか。藪から棒に」冷たく言い放つと私の返事を待たずに日吉くんは視線を逸らした。真っ直ぐに進行方向を向いて歩く日吉くんの前髪に街灯が落ちる。きれいな色だ。瞳に突き刺さりそうな長さのそれは日吉くんの目元に影を落とした。
珍しく自分のカンが冴えているなぁと思う反面、それはそれでこれ以上踏み込むのも難しいし踏み込んだところで何かが変わるわけではないのだけれど。だけど、少しでも日吉くんのことを知りたいと思った。よくわからない子で済ませたくないと、どこかで思っていた。

「だって日吉くん、なんだか仁王くんと会ってから、・・・その」

そう。仁王くんと会った、あの後からだったと思う。
今思えば、の話だけれど。







バスを降りた私たちを出迎えたのは仁王くんだった。今日私と日吉くんがわざわざ電車に揺られバスにも揺られ神奈川までやってきたのは関東大会15連覇、全国大会2連覇という輝かしい成績を持つ、全国1位の強豪校、立海大付属中の男子硬式テニス部を偵察するためだ。バレないようにしないとダメだよ、とついさっきバスの中で言ったばかりだというのに、さっそくその立海テニス部の部員、しかもレギュラーのひとりとばったり会ってしまうだなんて、先輩風を吹かしていた自分が恥ずかしい。
早いところデータを取って、ちゃっちゃと切り上げて氷帝に帰りたいなと考えている私を余所に二人は何やら睨み合いを初めてしまうものだから困ったものだ。
確かに、日吉くんと仁王くんはぜんぜんタイプが違うし、失礼だけど二人が仲良く会話するところなんて少しも想像できない。勇者の手下その1が悪の帝王へ向かう前の階段下で足止めする中ボスと相容れられないのと同じだ。
睨み合い、というか日吉くんが仁王くんを一方的に睨みつけているだけなのだけれど、私としては早くこの状況から切り抜けたかったので、つかんでいた日吉くんの袖をひょいと軽くひっぱって「日吉くん、行こう」小声で訴えていると仁王くんは意味ありげにふっと笑って立ち去ってしまった。おそらく学校に戻るのだろう。買い物は良いのだろうか。ぼんやりとそんなことを思っているとまだ自分が日吉くんの袖をつかんでいたことに気が付き、「ご ごめん」慌てて手を離すと「いえ、別に」短く答えた日吉くんは私を一瞥すると「行きましょうか」仁王くんの背中、ではなく立海大附属中学校の看板に従って歩き出した。

「びっくりしたねぇ、いきなり立海のひとに会っちゃうなんて」
「そうですね」
「しかも仁王くんだなんて」
「しかも、ってどういう意味ですか」
「え、あ、ううん、なんでもない」

嫌な事件というか出来事というか。仁王くんとのそのことがまた頭の隅に残っていたせいでついそんなことを口にしてしまった。日吉くんには全く関係のない話だから不審に思われたかもしれない。日吉くんは怪訝な表情を私に向けただけで、それ以上何も詮索することはなかった。と、言うよりも、その後の会話はほとんどなかったように思う。立海に到着してからは特に、私は立派なマネージャーとして、あとは跡部くんを見返すため、私はデータを収集することに集中していたし、日吉くんは日吉くんで、きっとプレイヤーとしての視点からいろんなデータを収集していたのだと思う。私と違ってノートに書き留めるようなことはしていなかったけれど、きっと私のノートよりもずっと正確で役に立つデータをその目と頭に刻んでいたのだろう。もしかしたら頭の中で自分と相手との試合をイメージしていたのかもしれない。日吉くんは、勝てただろうか。
そんなことを考えているうちに、あっという間に時間が過ぎていきすっかり日が落ちてしまった。この後は学園に戻らなければいけなかったので、「日吉くん、そろそろ帰ろう」ちょうど仁王くんと柳生くんとの試合に見入っていた日吉くんはどこか名残惜しそうに「わかりました」返事をした。

帰りの電車は上りだったせいかずいぶんと空いていて、私と日吉くんはすんなりと座席に腰かけることができた。反対方向に向かって走る電車にはひとがぎゅうぎゅう詰めにされているのに、私たちの乗っている電車は平和なもので、ノートを開いて本日の収穫をチェックしていたのだけれどどうやら私は途中で眠ってしまったらしい。眠るだけでなく日吉くんの肩まで借りてしまっていたらしく、耳元で日吉くんの声が聞こえたときにはびっくりしてそのままの意味で飛び起きてしまった。「よく眠れましたか」嫌味のように日吉くんはそう言って、膝の上で開いていたはずのノートを私に差し出した。「全く。眠るなら大事なノートは鞄にしまってからにしてくださいよ」口の減らない後輩だ。やっぱりどっちが年上なんだかわかったものじゃない。

「ごめんなさい、寝ちゃって」

車内アナウンスが次の停車駅を告げる。眠っていたせいかあっという間に学園の最寄駅だ。日吉くんに差し出されたノートを受け取り、膝の上でしっかりと持った。

「別に気にしてません」
「日吉くんの方が疲れてるよねぇ、ずっと集中して見てたみたいだから」
「まぁ、いろいろと勉強になりましたよ」
「部長の幸村くんのデータが少しでもとれたのは大きかったよね」
「ええ。あれだけでも結構な収穫だと思います」
「注目の1年生のデータもたくさんとれたし」
「やっぱり立海は層が厚いですね。自分の目で見られて参考になりましたよ」
「日吉くんが気にしてた仁王くんの試合は最後まで見られなかったけど」
「・・・まぁ、そうですね」

急に素っ気ない態度になった日吉くんの様子を窺う暇もなく、どうやら電車はいつの間にか一駅分進んでいたらしく車内アナウンスが学園の最寄駅に到着したことを告げたので、日吉くんの後に続いて私は電車を降りた。鞄にしまい忘れてしまったノートは落とさないように胸の前に抱えた。







そして今こうして私は日吉くんと並んで氷帝学園に戻っているところだった。

「・・・その、なんとなく不機嫌な感じになったと、いうか」

できるだけ日吉くんの機嫌をこれ以上損ねないように、と考えに考え抜いたはずなのに、結局は何のひねりもない訊き方をしてしまった。そろそろと隣の日吉くんを覗いてみると、ばっちり視線が合ってしまって思わず肩が飛び跳ねる。

「そのノート」
「え?」
「見せてもらえませんか」

棘のみっつでも降りかかることを予想して身構えていたのに肩すかしを食らった気分だ。私の質問は無きものにされてしまったのだろうか。「うん、どうぞ」胸の前に抱えていたノートを差し出すと、日吉くんは徐にノートを開き視線を落とした。こんな暗い道でノートの中身なんて読めるのだろうか。というよりも、歩きながら読み物をするなんて日吉くんのイメージじゃない。

先輩はずいぶんあの人と仲が良いんですね」

ぱらぱらとノートを捲りながら、日吉くんが不意に零した。どうやら私の質問は無きものにされてしまったわけではなかったらしい。「あの人って、仁王くんのこと?」そうに決まっているとは思ったものの、確認の意味も込めてそう尋ねると日吉くんはウンともスンとも言わなければ頷くこともしてくれない。無言の肯定というやつだろうか。余計な質問を重ねて棘を食らうのも本意ではないので、私は話を続けることにする。

「仲良くなんてないよ。ただちょっと、昔」
「・・・・・・」
「えー、と。昔、ちょっと」
「・・・昔、何ですか」
「昔・・・うーんと」

なんて言ったらいいんだろう。あのときの記憶を頭の中で手繰ってみるのだけれど、それをうまく説明することができそうにない、というよりできれば思い出したくないし、日吉くんに話をして余計な心配というかむしろ呆れられるような気もするけれど、どちらにしたってあんまりひとに話したいことではない。

「話したくないのならいいです」

言いあぐねていると、日吉くんはきっぱりとそう言ってぱたんとノートを閉じた。何かを察してくれたのだろうかと日吉くんを横目で確認してみると、察したというよりもむしろ何か勘違いをされてしまっているような気がして、「ええと、話したくないというか思い出したくないというか」自分でも何を言っているのかよくわからない状態になってしまった。事実無根であるにせよ、変な勘違いをされるのはあの嫌な事件によってできた私の心の傷に塩を擦り込まれるような気分だ。

「ただ、先輩が余りにもあの人の色んなデータを知っていたのが気になっただけですから」

あたふたしている私を一瞬だけ視界に捉えると日吉くんは視線を前に戻した。
なんというか、びっくりしてしまった。私の中の勝手なイメージでは、日吉くんはこういうことを素直に吐露するようなタイプじゃないかったので。もしかしたらもうどうでもよくなってこの話題に収拾をつけるべく適当に浮かんだセリフを口にしただけという可能性もあるのかもしれないけれど、やはり私の中の勝手なイメージでは、日吉くんはそこまで機転の利いたことを言えるようなタイプではなかった。

先輩」

などと大変失礼な思考に陥っていた私を引き戻すように日吉くんは私の名前を呼んだ。「これ」日吉くんは私のノートを目の前に掲げると、「俺が質問しますから、答えてください」行きの電車と全く同じセリフを零した。今日の偵察の復習でもさせるつもりだろうか。電車の中でほとんど眠っていた私に対する当てつけだろうか。なんて抜かりのない後輩なんだろう。「う・・・いいよ」行きの電車と同じセリフなんて吐けるはずもない私はいかにも自信なさげに答える。日吉くんはノートを閉じたまま質問を始めた。

「日吉若」
「えっ」
「利き腕」
「えっと、右」
「プレイスタイル」
「アグレッシブベースライナー」
「身長体重」
「172p、60kg」
「血液型」
「AB」

スラスラと解答してみせた私をじぃいっと見やると、日吉くんはなぜか得意げな表情で小さく笑う。なんだかおかしな気分だ。てっきり立海のデータについて質問をされると思っていたのに、まさか氷帝の、というか日吉くんが質問の対象だったなんて。そんなのとっくの昔に収集も復習も記憶も終えてしまっているのだから答えられるに決まっている。

「へえ、よく知ってますね」
「もちろん。ねぇ日吉くん」
「なんでしょう」
「誕生日は、訊かないの?」

得意げになる私を余所に、日吉くんは自分には関係ないとでも言いたげな表情をしていた。日吉くんの話をしているのに。まったく、本当によくわからない後輩だ。

「日吉くん、お誕生日おめでとう」

ずっと言いたかった言葉を、ここへきてようやく口にすることができた。本当は、ここで言うつもりなんてなかったのに。朝練のときも、お昼休み偶然見かけたときも、部室の掃除中に一言会話を交わしたときも、そして二人で電車に揺られているときも、ずっと言いたかった言葉を我慢していたのは日吉くんへのサプライズのためだったのに。
我慢できなかったのだ、敢えて質問の中に誕生日を加えなかった日吉くんがあまりにも可愛かったので。

「・・・ありがとうございます」

照れているのか、私から顔を背けるように少し俯いて日吉くんはぼそりとそう呟いた。私ひとりにお祝いされただけでこんな風になるのなら、部室で待ち構えているみんなから一斉にお祝いの言葉を浴びせられた日吉くんはいったいどうなってしまうんだろう。想像してみると思わず頬の筋肉が緩んでしまう。

「まぁ、マネージャーやってれば当然ですか」
「う・・・かわいくないなぁ日吉くんは」
「可愛くなくて結構ですよ。男ですから」

急にいつも通りに戻った日吉くんはゴホンとひとつ咳払いを零すと、視線を少し遠くに向けていた。
視線の先には見慣れたフェンスの壁。その向こうには、ライトに照らされたテニスコートが静かにたたずんでいた。いつのまにか私たちはもう学園のすぐ近くまで歩いていたらしい。日吉くんの横顔をぼんやりと見つめながらもう一度小さく呟いた。「おめでとう」







日吉くんと出会ったのは初春のフェンスだった。氷帝テニス部のコートをぐるりと囲むアルプス式ベンチの、それをさらに囲むフェンス。今思えば私はあのときから、日吉くんのことがずっとずっと気になっていたのかもしれない。あのときの日吉くんよりも背が高く、あのときの日吉くんよりも生意気で、あのときの日吉くんと同じようにフェンスの向こうを熱心に見つめる日吉くんのことが。

けれど、今はあのときと違って日吉くんと私の間にフェンスはもうない。

「ほら日吉くん、早く部室に行こう?きっとみんなが主役の登場を心待ちにしてるところだよ」

私が日吉くんの制服の袖をちょいと引っ張ると「仕方がないですね」わざとらしく大きな溜息を零すと、とびきり柔らかい表情で笑った。12月5日月曜日、夜のことである。私がこの恋に気づいたのは。


春隣コンチェルト